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社説・コラム

コラム 視点「放影研保有の『黒い雨』データ、外部の疫学専門家らを加えあらためて分析を」

■センター長 田城 明

 「黒い雨」と聞けば、井伏鱒二の小説を思い浮かべる人も多いだろう。本の題名も手伝ってのことか、広島では原爆投下後に降った黒い雨と原爆被災とは深く結びついている。

 木造の家などが焼け、大量のススやホコリが混じった雨は、強い放射能を帯びていた。原爆資料館の一角には、のどが渇いて水を求める人々が、口を開けて降ってきた雨を飲んだり、たまった雨水を飲もうとしたりする姿を描いた、被爆者の絵も展示されている。

 同じ放射性降雨でも、雨が雪のように白い粉となって降り注いだケースもある。1954年、中部太平洋マーシャル諸島での米水爆実験に遭遇した第五福竜丸の場合だ。白い粉は、熱線で焼けたサンゴ礁が粉になって吹き上げられた放射性降下物。実験場から東へ約160キロの海域でマグロ漁をしていた23人の乗組員全員が、嘔吐(おうと)や下痢など急性放射線症状に見舞われた。  

 広島・長崎への原爆投下翌年の1946年からマーシャル諸島で始まった米大気圏核実験。周辺の島民や参加兵士たちの多くは、直爆こそ受けなかったものの、「死の灰」がもたらす放射線被曝(ひばく)で、がんなど多くの疾病に苦しんだ。1951年にネバダ核実験場へ移ってからも、繰り返された大気圏核実験。ネバダ州やユタ州などの風下地区の広い範囲で、住民たちは残留放射線による外部被曝や汚染牛肉など食物連鎖による内部被曝で、のちに病気を発症した。

 軍部も原子力委員会(現エネルギー省)も、兵士や住民たちに放射線の危険を教えることはなかった。激化する米ソ冷戦下、安全保障の名において常に核兵器開発が優先された。

 白血病、肺がんなど特定のがんを発症した被曝兵士、風下住民、ウラン鉱山労働者、その遺族に補償金を支給する法律ができたのは、ビル・クリントン政権下の1990年。東西冷戦の終焉(しゅうえん)を待たねばならなかった。例えば兵士の場合の補償金は、7万5千ドル。ただ、その取得は煩雑な証明手続きを必要とするなど決して容易ではない。

 今回、長崎の本田孝也医師がインターネット検索で見つけたという黒い雨に関する研究報告は、1972年にオークリッジ国立研究所から出されたものだ。その報告をまとめた日米2人の研究者は、原爆傷害調査委員会(ABCC)が集めた被爆者データを基に、初期被曝線量の比較的低い1600メートル以遠で黒い雨に遭った人たちと、類似の被爆状況で黒い雨に遭わなかった人たちを比較。研究報告は、前者の方が、脱毛、下痢、発熱などの放射線症状の発症率がはるかに高いことを示している。

 この報告で一つ気になる点がある。冒頭の「要旨」に、放射性降下物の影響について「より詳しい分析を推進すべきか、断念すべきかの結論を確立するための試みである」と、あたかも当局に伺いを立てるかのような記述があることである。

 オークリッジ国立研究所は、ABCCと密接な連携を取りながら放射線の人体影響を調査してきた。と同時に、第2次世界大戦中の「マンハッタン計画」以来、核兵器開発の研究・製造に関わる拠点施設の一つでもある。

 1975年に日米共同運営の放射線影響研究所となる前のABCCは、米国の意のままに研究が続けられてきた。ソ連との核開発競争でしのぎを削っていた時代である。放射線の人体影響についての「不都合な真実」は、公衆に知られない方がいいと、オークリッジ研究所内や、研究所を管轄する原子力委員会などから断念すべきとの勧告があったとしても何ら不思議ではない。

 広島・長崎の被爆者の放射線影響に関する貴重なデータを引き継いだ放影研。そのデータは、決して放影研だけのものでも、日米双方の国のものでもない。

 報告書をめぐっての本田医師とのやりとりから、黒い雨に関する約1万3千人についての基本データがあることも分かった。この機会に外部の疫学専門家らも加え、あらためて詳しい分析を試みてはどうか。それこそが貴重なデータを提供した被爆者に応える道であろう。

 折しも東京電力福島第1原発の炉心溶融事故以来、福島県民をはじめ、人々の放射線の人体影響への関心は高まっている。放射性降下物である黒い雨についても、正確な知識を持つことが放射線防護や不安を和らげることに寄与するに違いない。

(2011年12月5日朝刊掲載)

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