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社説・コラム

社説 日米開戦70年 責任問い続けなければ

 70年前のきょう、太平洋戦争が始まった。翌日付の中国新聞の社説がこう書く。「われらは人類の幸福のため聖戦に立ち上がった。断じて勝たねばならぬ」

 国を挙げて突き進んだ戦争の結末は悲惨極まる。アジアで2千万人もの命が奪われた。広島と長崎に米国は原爆を投下した。20世紀最大級の人類に対する罪というほかない。

 だが日米両国とも、その責任を認識し、けじめを十分に果たしているだろうか。

 戦前の日本は軍が独走し、政治も無力だった。そうして誰も開戦を止めることができなかった。聖戦という言葉で国民をあおり、大本営発表に異を唱えなかった戦時下の翼賛報道について、私たち新聞も率直に反省するしかない。

 そして、おびただしい民衆の犠牲にどう向き合ってきたか。いま一度、戦後のこの国のあり方を検証する営みが不可欠だ。

 きのう大阪地裁で、空襲被災者や遺族が国に損害賠償と謝罪を求めた訴訟の判決が言い渡された。「空襲被害への補償を求める憲法上の権利は認めがたい」との理由で、原告の主張を退けた。

 同時に「政策的な観点から救済措置を取るべきだとの見解はあり得る」とも指摘している。

 国が始めた戦争なのに、国が補償するのは軍人や軍属らに限られてきた。本土各地の空襲に目を背け続ける政府の姿勢は、被爆者援護法に「国家補償」が盛り込まれないことと根は同じだろう。

 アジアの戦争犠牲者への対応もそうだ。国は「政府間で賠償済み」とし、個人レベルの補償にはいまだに及び腰だ。戦時中に日系移民を収容した米国が政府の責任で個人への補償をしてきたことに比べれば、落差は大きい。

 日本政府は民衆の痛みに鈍感だと非難されても仕方あるまい。それは戦後このかた、原爆投下責任を正面から米国に問わないこの国の立場とも無縁ではないだろう。

 日米同盟のもと平和と繁栄を享受してきた。だからといって、核兵器廃絶を訴える被爆国が核大国の「核の傘」の下にある現状は、矛盾というしかない。

 米国が率先して原爆の使用は国際法違反だと認めるよう、日本政府は率直に要求すべきである。核拡散の危険が世界を覆う今こそ、核兵器を非合法化すべき時機といえるからだ。

 広島市長や知事は今年相次ぎ、米国に謝罪を求めない考えを明らかにした。まずはオバマ大統領が被爆地を訪れ、惨状に触れてもらおうという現実的な判断だろう。

 だがそれでは、投下責任がうやむやにならないか。日本の戦争責任を不問にしがちな国内の風潮とも重なれば、アジアに根強い「原爆によって日本支配から解放された」との投下肯定論を是認することにもつながりかねない。

 ヒロシマがこの先も核兵器廃絶を世界に訴えるならば、まず被爆地自身が戦争と原爆投下にけじめをつけなければなるまい。

(2011年12月8日朝刊掲載)

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