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社説・コラム

『この人』 「ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会」代表理事の被爆者 岩佐幹三さん

証言の収集・発信誓う

 「被爆者は残酷な被害を乗り越え、体験を語り、再び被爆者をつくらないために闘い続けてきた」。10日、会の設立総会のあいさつでこう切り出した。その言葉は自らの「生」と重なる。

 父の転勤で小学1年から広島市に。「戦争に行って死ぬのが目標」という軍国少年だった。16歳のあの日、爆心地から1・2キロの富士見町の自宅の庭にいた。後ろ頭をバットで殴られたような衝撃にも、奇跡的に軽いけがで済んだ。

 しかし、母はつぶれた家屋の下敷きに。1メートル先に見える。手を血だらけにして掘るうちに火が迫る。「逃げなさい」と般若心経を唱え始めた母。泣きながら別れた。2日後に掘り出した。「マネキンにコールタールを塗って焼いたようだった。母は物として殺された」。建物疎開作業に出た女学校1年の妹は見つかっていない。父は5月に病死。原爆孤児になった。

 原爆、終戦を経て「生きることに拘泥するようになった」と言う。叔母の援助で大学に進み、英国思想史の研究者に。金沢大で法学部長まで務めた。傍らで石川県の被爆者団体をつくり、健診の実現などに奔走。退官後は日本被団協の運動を担うため千葉県船橋市に妻寛子さんと転居した。

 「平和を愛する人々の心に被爆者の思いを届け、受け継いでもらうのが緊急の課題」。会は3年後をめどに、被爆者の証言や運動の記録を収集、発信する平和資料センター設立を目指す。「くよくよしない性格に母が生んでくれた」。持ち前のずぶとさで一大事業に挑む。(岡田浩平)

(2011年12月16日朝刊掲載)

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