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社説・コラム

コラム 視点「放射線被曝の危険より優先された核兵器開発 秘密と欺瞞 今も続く」

■センター長 田城 明

 国の体制は違っても、核兵器開発には、常に秘密と欺瞞(ぎまん)がつきまとってきた。開発に伴って生じる放射性物質による人体や環境への影響についても、同じことが言える。

  原爆投下から1カ月後の1945年9月6日。広島や長崎ではなお、放射線被曝(ひばく)の影響で、次々と死者が出ている中、原爆開発の「マンハッタン計画」副責任者のトーマス・ファーレル准将は、東京で連合国軍の従軍記者を前に言った。広島・長崎では死ぬべき者は死に、原爆放射能のために苦しんでいる者はいない―と。

  この発言は、単に原爆使用の非人道性が世界に知れ渡り、米国非難が高まるのを防ぐことだけを意図したものではないだろう。核開発を続けるためにも、自国民を含め放射線被曝の影響は隠蔽(いんぺい)しておきたかったのだ。

  とはいえ、被爆者調査で放射線の人体への影響は正確につかみたい。1947年の原爆傷害調査委員会(ABCC、現放射線影響研究所)の設立には、米軍部の思惑が色濃くにじむ。「被爆者の福祉のために」「原子力平和利用への貢献」―。ABCCは、研究目的をこう説明してきた。だが、少なくとも1950年代を通じて「核戦争に備えて」といった軍事目的が優先されてきたのも事実である。

 1952年、ABCCは広島の入市被爆者らを対象に残留放射線の影響調査を独自に始めた。広島市の医師ら医療関係者から、入市被爆者で原爆症にかかった人たちはいないかと直接尋ねたり、広島県内の市町村長や医師に質問票を送って症例報告を受けたりしていた。ところが、翌年には中止された。理由は明らかにされていない。

 一つ言えるのは、米軍部や原子力委員会(現エネルギー省)は、放射性降下物(死の灰)の影響よりも、直曝による高レベル放射線の人体影響をより知りたかったのだ。1949年に核実験に成功した旧ソ連との激しい覇権争いと核開発競争の中で、核戦争の可能性は当時、「現実」のこととして想定されていた。

 米国の著名な物理・化学者のライナス・ポーリング博士(1901~1994年)の指摘は、核をめぐる当時の時代状況を知る手掛かりになろう。大気圏核実験に伴う放射能汚染の危険を訴え、実験禁止を強く求めていた博士は、亡くなる1カ月前に私のインタビューに答えてこう言った。「原子力委員会はささいな放射能の危険より、核軍事力増強を放棄して起きる核攻撃の悲惨の方がよほど怖いと考えていた」

 水爆を開発した物理学者のエドワード・テラー博士(1908~2003年)らは、その後「クリーンな爆弾」を唱え、実験を中止したら造れる可能性のあるそれすら造れなくなるとして実験を継続した。

 核戦争に勝者はいないことが分かっていながら、それでもなお勝利し生き延びることができるとの「幻想」に支配された時代。こうした危険な考えの下に人類は置かれ、生きていたのだ。今、その危険は克服されたと誰が言えるだろうか。核兵器開発に伴う秘密と欺瞞は、核物質を利用する国の増加とともに、今も続いている。

(2012年1月16日朝刊掲載)

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