×

社説・コラム

<評伝> 重松逸造さん チェルノ支援に使命感

 ややハスキーな声に自信があふれていた。落ち着いて選ぶ言葉の端々から、科学者の信念が伝わってきた。

 重松逸造さんに初めてインタビューしたのはもう20年ほど前。放射線影響研究所(放影研、広島市南区)の理事長として脂が乗りきったころだ。

 ヒロシマの被爆者医療の蓄積をチェルノブイリ原発事故の被災者支援に生かす。使命感を熱っぽく語ってもらった。

 長尺の記事になったが、思いのほか短時間でまとめることができた。理路整然と考え、よどみなく語る重松さんのすごみを思い知らされた気がする。

 酒席を愛し、よくしゃべり、笑った。仕事を離れると、つくづく豪胆な人でもあった。

 病気の発生状況を統計的に明らかにし、原因を探る疫学の専門家である。こつこつと積み上げたデータから物事を考え、因果関係を解き明かしていく。

 そうした科学的な厳密さを貫けば、しばしば批判の的にされるのも無理はない。融通が利かない人だと。

 チェルノブイリ事故の5年後、国際原子力機関(IAEA)の現地調査に加わり「住民の健康への直接影響はない」との結果をまとめたときもそうだった。仲間である広島の医師からも「過小評価ではないか」と疑問の声が上がった。

 重松さんは臆する態度を見せなかった。後になっても「当時としては正しかった」との姿勢は変えなかった。

 だがそのころから、じくじたる思いを心の底に抱えていたのではないか。

 原爆症認定申請をめぐり、行政の硬直的な却下処分が司法の場で相次ぎ批判されたころ。重松さんにコメントを求めると、科学的な態度とは裏腹の答えが返ってきた。「たとえ放射線の影響はわずかでも、原爆被害者は救済されるべきだ」

 同僚記者が2年前、原爆投下直後の「黒い雨」の健康影響について話を聞いた時も「科学の判断とは別に、行政としての救済が必要だ」と言い切った。

 長年追究しても解明しきれない放射線被害の奥深さを痛感すればするほど、科学が持つ限界を自ら認めざるを得なかったのだろう。

 あるいは原爆を開発した科学者仲間への憤まんや、科学の無力さへの贖罪(しょくざい)の意識があったのかもしれない。

 放影研理事長時代、自らの役割は「核兵器の恐ろしさを発信すること」が口癖だった。

 核戦争という「人類の病気」を防ぐための根本原理は、核兵器廃絶という「予防」を怠らないこと。それこそが、疫学の道に生きた一人の科学者の信念だったに違いない。(論説主幹・江種則貴)

(2012年2月16日朝刊掲載)

年別アーカイブ