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社説・コラム

特別評論 フクシマリポート 被曝・汚染…理不尽な重荷

■特別編集委員 田城明

 見えない放射線による被曝(ひばく)や汚染への不安…。福島県民の多くは今もなお、予期せぬ事故がもたらした理不尽な重荷を背負って生きている。東京電力福島第1原発の事故から1年。暮らしの先行きも、やはり見えない。

 先月末、駆け足で現地をめぐった。

 第1原発から北へ約50キロ。相馬市の松川浦漁港に1隻の漁船が戻ってきた。降りしきる雪の中で、50人ほどの漁民が出迎える。

 「大漁旗を立てて帰港するのならいいけど、魚の放射線量を測るためのサンプルを捕ってきた」。地元漁協で底引き船頭会長を務める松本浩一さん(57)が説明してくれる。船から降ろされたクーラーには、カレイ、タコ、タラなど約20種の魚が詰め込まれていた。

 サンプルの漁は週1回だ。放射性セシウム137と134の蓄積量を測定し、地元メディアなどを通じて公表している。

 セシウムの値は、ほとんどの魚が政府の暫定基準値(1キログラム当たり500ベクレル)をはるかに下回る。だがアイナメのように超える魚種も。4月からは基準値が5分の1の100ベクレルと、格段に厳しくなる。

 福島の漁民は、昨年の3月11日以来、1隻も漁に出ていない。県漁連の方針で一斉中止が続く。

 「本当は補償金など要らない。漁師は海に出て魚を捕ることこそが生きがい。いつまでこんな生活が続くのか。これでは夢も希望もない」。豊かな海が目前に広がりながら漁のできない悔しさ。松本さんの言葉が、漁民たちの思いを代弁していた。

 昨年4月、計画的避難区域に指定され、養護老人ホームの入所者らを除いて離村を余儀なくされた人口約6千人の飯舘村。村の主要産業だった畜産業のうち、酪農家は11戸全員が仕事をやめた。80戸あった和牛農家も、県内の低汚染地域や県外に移って同じ仕事を続けているのはわずか1割にすぎない。

 「終戦直後の日本は『国破れて山河あり』と言われたが、今は『国栄えて山河なし』ですよ」。県南部の中島村へ移り、牛舎を借りて和牛飼育を続ける原田貞則さん(56)は、放射能で汚染された故郷をこう言い表した。

 飯舘村は村独自の除染計画を立て、2年以内の帰村を目指すという。だが、原田さんら農業従事者の多くは懐疑的だ。山や農地の除染は簡単ではない。風評被害にも遭わず、安心して農作業に従事できる環境が整うのは、何年先になるか分からない。

 米や野菜、果樹栽培など農業や漁業に及ぼす原発事故の影響は、今も計り知れない。

 さらに避難生活のストレスに加え、放射能汚染や低線量被曝への個々の考え方の違いが、避難者や地域住民の絆を断ち切る要因となっている。

 福島県全体の避難人口は、「自主避難者」と呼ばれる人たちを含めて約15万人。うち県外に移り住んでいる人々は6万人余。1カ月に千人ほどの人口減が続いている。

 原発事故によって暮らしが奪われ、不安の中で生きる福島県民は、政府や東電に生活補償を求め続けている。同時に、従来の原発依存から再生可能エネルギー先進県へ生まれ変わることで、事故の教訓を生かそうとしている。県の復興ビジョンにも明記した。

 事故から1年を迎える11日には、県漁連、県農協中央会の会長らが呼び掛け人に加わり、脱原発を訴える県民集会が郡山市で開かれる。

 「原発事故によるフクシマの苦しみを誰にも体験させてはならない」。現地を訪ねると、県民のそんな思いが強く伝わってくる。「被曝地」として果たすべき役割を多くの人が自覚しているのだろう。

 被爆地広島とのつながりも深めたいものである。

(2012年3月8日朝刊掲載)

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