×

社説・コラム

社説 大震災1年 <上> 原発

 福島県会津若松市で3日催された「『フクシマ』と共に」と題する東北復興シンポジウム。冗談も交えた和やかな会場が岩手ゆかりの宗教学者、山折哲雄さんの言葉に静まり返った。

 「近代文明が抱え込んでいるリスクと犠牲を私たちの社会は見て見ぬふりをしてきた」

 福島第1原発の事故は、とてつもない「犠牲」をまざまざと見せつけた。わが家、そして古里から引きはがされた避難者は10万人を超す。現場では約3千人が、いつ終わるともしれない困難な収束作業を続けている。

 原発の「安全神話」は根こそぎ覆された。だからこそ事故後、全国の原発が定期検査入りとともに運転停止へと追い込まれてきた。今なお運転を続けるのは北海道と新潟県の2基。それも4月には定検に入る。

 ここにきて日本経団連の米倉弘昌会長をはじめ、産業界を中心に再稼働を求める声が強まっている。いわく「電力不足になれば操業できない」「産業の空洞化が加速する」と。

 同じような懸念は事故後、何度となく聞かされてきた。冷暖房の電力需要が高まる夏を越せるのか。今度は冬こそ危ない―。幸いなことに列島は、春を迎えようとしている。

 家庭や企業での涙ぐましい節電努力のたまものに違いない。とはいえ、「原発ゼロ」の社会に戻るのは半世紀ぶりである。節電や自家発電の工夫や我慢、電気料金などへのはね返りはどれほどになるのだろう。

 政府は「脱原発依存」に向け、あるべき社会の姿を国民の実感に沿った目安できちんと示すべきだ。再稼働が必要かどうかは、その上での議論になる。

 何より、あれだけ甚大な被害を目の当たりにした今、「電力不足だから再稼働」といった短絡的な議論には違和感を覚えざるを得ない。二つは切り離して考えるべきではないか。

 そもそも政府や国会の事故調査委員会のいずれも最終報告を出せていない。事故の原因さえいまだつかみきれず、責任の所在が明らかではないのだ。

 にもかかわらず、原発の再稼働に向けた段取りは進んでいる。昨年7月に当時の菅直人首相が導入を決めた安全評価(ストレステスト)である。枝野幸男経済産業相は「安全確認ができたならば、当面は原子力を使わせてほしい」と地元同意を求める意向を明らかにしている。

 「突破口」と目されているのは福井県の関西電力大飯原発のようだ。既に審査は済み、原子力安全委員会による確認も今月中に終わる見込みという。

 見逃せないのは「1次評価は安全確認として不十分」とする班目春樹委員長の発言だ。それどころか、欧米ではストレステストを再稼働の判断材料にした前例はないという。

 先ごろ民間の事故調がまとめた報告書で、危機管理を担うべき官邸や原子力安全・保安院など原子力行政の機能不全ぶりが浮き彫りになった。国民の信頼は地に落ちた。その土台を立て直さないまま、地元の同意だけ取り付けようとするのは本末転倒というほかない。

 菅首相が掲げた「脱原発依存」の旗を民主党政権は守っているはずだ。再稼働は矛盾しないのか、国民に対する懇切丁寧な説明が求められる。

 その点、原発の運転期間を「原則40年」と明記し、今国会に提出されている原子炉等規制法改正案は一定の展望を示す。「新増設はもう無理ではないか」という国民の思いも強いだろう。第一、持って行き場のない使用済み核燃料をこれ以上、積み上げるわけにもいくまい。

 再生可能エネルギーの位置付けをはっきりと打ち出すことで、できる限り早い時期に脱原発依存を実現するといった目標を明確にすべきだ。そうやすやすと道は開けまいが、科学技術立国としての知恵と力とを振り絞りたい。

 電気をむさぼり、犠牲はほかに押し付ける社会の在り方は、もう二度と許されない。権利には義務と責任が伴う。

(2012年3月9日朝刊掲載)

年別アーカイブ