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社説・コラム

今を読む 沖縄国際大教授 佐藤学 沖縄の「ポーク」

単純に割り切れない存在

 「佐藤」という名字は、沖縄に元からあったものではなく、今でも沖縄にいる佐藤姓の大半は県外出身者である。私もご多分に漏れず東京の出身だ。そんな自分がなぜ、沖縄の大学で教え、またこうして中国新聞の読者の皆さんに向けて文章を書かせていただいているのか。

 私は大学院修士課程まで東京に暮らし、博士課程に進む試験に落ちた。勉強を続ける唯一の可能性だった米国の大学院に留学し、それから17年間を米国で暮らした。

 そのような人間が研究対象としての沖縄に移った、というのならば話は収まるだろう。しかし実際には、米国で大学非常勤講師の職を失い、これまた唯一の可能性として紹介された現在の仕事に、わらにもすがる思いで就いたのである。

 沖縄にいる県外出身研究者の多くは、沖縄を研究対象とする人たちだ。私は、仕事を得てから沖縄を研究対象にした、かなりおかしな存在である。その沖縄での生活が10年過ぎた。

 この間、大学での本来の任務である地方自治と、米国大学院で学び、また米国大学で教えた米国政治の仕事をしてきたのは当然として、沖縄では、自治と米国政治を学んだ者の義務として米軍基地問題への関わりが生じた。そうして10年前には予想もしなかった類いの仕事を数多くするようになっている。

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 私の家は今も米国ペンシルベニア州ピッツバーグにあり、年3度の休みには、家族に会いに帰宅する。永住権を持つために、米国連邦所得税も払わねばならない。また、東京の実家には老いた両親が健在である。

 自分も年を取るにつれ厳しくなっていく生活形態であるが、複数の視座を持つことが可能な立場から沖縄の状況に関わる。それが自分の役割だと自分に言い聞かせている。

 沖縄生活を始めて最初の数年間、とても嫌に思うことがあった。

 沖縄で「ポーク」と呼ばれる「スパム」缶の存在である。今や迷惑メールの代名詞ではあるが、チャンプルー料理にポークは必須であり、ポーク卵おにぎりは沖縄のコンビニでは定番である。

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 私は、ポークを珍重するような人たちだと米兵に見られることが沖縄の人たちの地位を低くすることになるのではないかと懸念し、ポークを食べるべきでない、というような発言をしばしばしていた。

 しかし、沖縄の歴史と生活を学ぶ中で、なぜポークが広く受け入れられたかが分かるようになった。沖縄戦の前、沖縄には10万頭以上の豚が飼われていた。それが、敗戦直後の調査で、全県に千頭しか残らなかったのである。

 米軍が持ち込んだ糧食としてのポーク缶は、どれほどありがたいものであったか。また、流通が発達していなかった時代、夏の台風は沖縄の食料供給に深刻な打撃を与えた。保存の利くポーク缶が珍重されるのは当たり前だ。

 思い込みで沖縄に接すると大きなことを見失う。

 「そんなに基地を置くのが嫌なら独立しろ」「沖縄の人たちは反米なのだろう」、あるいは逆に「沖縄の人たちは米国・米兵が大好きなのだろう」、さらには「基地反対といって金をむしり取るだけではないか」。そうした型にはまった日本の人たちの考えが、国の沖縄政策の基礎となっている。

 沖縄には、基地由来の金にむしばまれてしまった、どうしようもない現実があるのは事実である。しかし、それが沖縄だけの問題でないことは「3・11」で明らかになった。

 独立しろ、反米・反基地に純化しろ、日本の一県として義務を負え…。左右を問わぬこれらの一方的な見方は、日本という国の中に多様性を認めない窮屈な空気を反映し、それをはびこらせる。

 長く日本と中国の間で生き延び、戦後は復帰後も続く米軍の圧倒的な存在の下にある沖縄が、単純に割り切れない存在であるのは必然である。それをそのままに受け入れ、沖縄が独自性を発揮できる条件をつくり出すことが、日本を「豊か」にすることにつながるのではないか。

 私はそう信じている。

沖縄国際大教授 佐藤学
 1958年東京生まれ。早稲田大大学院を経て米ピッツバーグ大大学院博士課程満期退学。2002年から現職。地方自治、アメリカ政治、日米関係などを研究している。著書に「米国型自治の行方」など。

(2012年4月17日朝刊掲載)

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