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社説・コラム

『私の師』 NPO法人「ANT―Hiroshima」代表 渡部朋子さん

「大地を這う」 胸に刻む

 「ヒロシマ」とは何かを問う大学の卒業論文が私の原点。執筆のため、いろんな人に会って話を聞いた。その一人が原爆孤児の「父さん」として自立を支えた広島大名誉教授で社会学者の中野清一先生(1993年に88歳で死去)だった。

 先生は55年、原爆に親を奪われた若者たちと「あゆみグループ」をつくり、家を開放して奥さんと一緒に孤児たちを受け入れた。65年に広島大を退官し、立命館大の教授になってからも交流を続けていた。

 京都府宇治市にある中野先生の家に毎月通った。夫婦で家族のように迎えてくれた。孤児たちにも同じように接していたのだろう。

 当時は、原爆投下から30年が過ぎるころ。風化を恐れていた先生は、万感の思いを込めて話してくださった。

 先生の言葉は、一滴一滴しみるように私の血肉となった。象徴的だったのが、「あゆみグループ」のモットーである「仲間と共に大地を這(は)う」だった。

 苦境にある者同士が助け合い、一歩ずつ大地を踏みしめ、残された生涯を生き抜く―。これは、私にとって大きな教えとなった。

 卒論を仕上げて大学を卒業し、翌年、結婚した。中野先生からは「心に平和の砦(とりで)を」との祝辞をいただいた。3人の子を育て、夫の仕事も手伝った。その間、中野先生がしたように「ヒロシマにかかわることをしたい」という焦燥感があった。

 市民活動に本格的にかかわるきっかけは、子どもが通っていた小学校での出来事。朝鮮学校の子どもたちとのけんかが問題になり、解決策として交流会を開いた。それから留学生の支援をするようになった。

 家族ぐるみで付き合っていた留学生に頼まれ、韓国人画家の絵画展を開くことになった。主催者として「アジアの友と手をつなぐ広島市民の会」をつくった。「ANT―Hiroshima」の前身。ANTは「アリ」を意味する英単語で、中野先生に教えてもらった「地を這う」にもちなむ名前にした。

 今、途上国の支援や平和教育に取り組んでいる。昨年は欧州の非政府組織(NGO)などと協力、パキスタン北西部に診療所を建てた。なぜそこまでするのか、現地の人に聞かれて初めて、国内外の支援で復興したヒロシマについて話をした。一緒に汗をかくことで、核の被害が繰り返されてはいけないということが伝わると思う。

 「ヒロシマに生きる者としての自覚を持ち平和な世界のため、どんな小さなことでも、できることを一緒にやろう」。平和教育では、そう話している。1匹のアリは微力でも百、千と集まれば不可能が可能になる、と。

 原爆孤児たちに自宅を開放した中野先生のように、いろんな人が事務所や家を訪ねてくれるのがうれしい。今後は、貧困や気候変動など世界が直面する課題について、若者たちが考えるサミットを被爆地広島で開きたい。(聞き手は増田咲子)

わたなべ・ともこ
 1953年、広島市中区生まれ。白島小、広島大付属中・高を経て、76年に広島修道大商学部を卒業。89年、「アジアの友と手をつなぐ広島市民の会」を設立し、代表に就任。2007年、NPO法人「ANT―Hiroshima」に衣替えした。98年から広島平和文化センター評議員、04年からは広島市教育委員、ひろしまドナーバンク評議員を務めている。安佐南区在住。58歳。

(2012年4月23日朝刊掲載)

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