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社説・コラム

社説 憲法施行65年 原点みつめ 生かす道を

 日本国憲法25条は「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と定める。生存権と呼ばれる。

 これを強く訴えたのが、後に広島大学長を務めた森戸辰男氏だったことを知る人は多くないかもしれない。

 1946年7月、憲法の条文を審議する衆議院の小委員会。森戸氏は「生存権の問題は、ぜひとも新しい憲法としては掲げなければならぬと思う」と食い下がっていた。

 国民の生命、自由と幸福追求の権利を定めた13条を保障すれば十分、というのが委員会の大勢。これに対して森戸氏は「人が尊厳ある人格として承認されることを裏付けられるものだ」などと擁護した。連合国軍総司令部(GHQ)主導の政府案にはなかった権利は、この議論を経て盛り込まれた。

 日本国憲法はきょう、施行から65年の節目を迎えた。

 若い人たちの就職口は少なく、非正規雇用が増大している。貧困が社会問題となって久しい。憲法の生存権を今、生かせているだろうか。

 国が、この問いを最初に投げかけられたのは、1950年代。低すぎる生活保護水準が25条に違反するとして朝日茂さんが国を訴えた「朝日訴訟」である。原告側は敗訴に終わった。しかし、憲法が定める生存権を、抽象的な国の責務にとどまらず国民が求めるべき権利として捉えよう、という機運が高まるきっかけになった。

 朝日さんの訴えの後、日本は高度経済成長を遂げ、生活は便利になった。しかし今、「最低限度の生活」を満たせない人が再び増えているように思える。

 国立社会保障・人口問題研究所によると、単身で暮らす20~64歳の女性の3人に1人が「貧困状態」という。普通の人が普通に暮らす権利が保障されていない国のありようを、この数字は問いかける。

 昨年の東日本大震災では1万5千人以上が命を失い、何とか助かった人たちも、慣れない仮設住宅や異郷の地での暮らしを強いられる。原発事故でも多くの人が古里を追われたままだ。

 憲法上の権利から乖離(かいり)するばかりの現実。手を打たない政治。怒りと失望を覚えている国民も多かろう。

 ここにきて、国会の内外では憲法改正をめぐる議論が活発になってきている。

 昨年、衆参両院の憲法審査会が始動した。自主憲法への改正を目指す自民党は先月、自衛隊を「国防軍」とする憲法9条改正などを柱とする改正草案を打ち出した。前文からは「全世界の国民が…平和のうちに生存する権利を有することを確認する」という文言を削除した。  9条の文言と自衛隊の現実に、矛盾は深まっている。しかし、戦後日本は憲法の平和主義を通して国際的な信頼を回復してきた。ヒロシマ・ナガサキの訴えが3度目の原爆使用を食い止めているといわれるのも、9条の理念が説得力を裏打ちしているからだ。そのことを忘れてはならない。

 自由な憲法論議はあっていい。ただ、「改める」ことにこだわるあまり、既にあるものを生かす方策が後回しになってはいないか。国民の生きる希望を保障する、という視点から憲法を捉え直すことこそ求めたい。

(2012年5月3日朝刊掲載)

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