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社説・コラム

『潮流』 被爆死の先輩記者思う

■論説委員 岩崎誠

 広島市公文書館で見つけたガリ版刷りのビラは、すっかり色あせていた。

 戦局が悪化の一途をたどる1944年2月、可部(安佐北区)の住民に回覧されたものだ。思いがけず先輩記者の名があった。山田光造さん。当時の中国新聞可部支局長である。

 ビラは山田記者による講演会のお知らせ。驚いたのは、その肩書が「第二交換船の帰朝者」となっていたことだ。しかも「米鬼の正体」や「在敵国被抑留邦人の生活」を語るという。

 交換船は開戦後、日米政府が互いに抑留する人々を帰国させるため2度、運航された。それに山田記者はなぜ乗っていたのだろう。

 縁戚を捜し、人となりを少し聞くことができた。父親の代からの移民であり、米国で新聞記者に。地元の落合村(安佐北区)から妻を迎え、4人の子どもにも恵まれたそうだ。

 しかし開戦に伴って収容所に抑留され、交換船に乗って一家で日本へ。本紙に職を得るものの、広島の本社近くで原爆に遭い、42歳で命を落とした。残された家族は、戦後しばらくして米国へ戻ったという。

 数奇な運命に言葉を失う。夢を懸けた米国での暮らしが戦争で奪われ、古里で戦意高揚の講演に引っ張り出される。「米鬼」との言葉に何を思い、自らをどう語ったのだろう。そして頭上でさく裂した原爆―。

 縁戚の人から、もう一つエピソードを聞いた。戦争中は山田記者の長女も英語力を買われ、富士山麓にあった日本軍の通信傍受施設に駆り出されたというのだ。利用できるものは何でも利用する。それが戦争の非情さではあろうが。

 きょう本紙は創刊120周年を迎えた。原爆殉職者として山田記者の名前は社史に刻まれている。案内を乞い、安佐北区にある墓に手を合わせた。大先輩の人生に思いをはせ、語り継ぐ決意を新たにした。

(2012年5月5日朝刊掲載)

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