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社説・コラム

『言』 3・11避難者の今は 道なお険しい人生の復興

◆渡部美和・命ひろ異の会世話人

 東京電力福島第1原発の事故で広島県内に逃れてきた人々が4月、ネットワークづくりに立ち上がった。賠償や支援策で線引きされ、孤立感を深める自主避難者もいるという。「命ひろ異(い)の会」と名付けたネットの世話人、渡部美和さん(37)に避難者の心境を代弁してもらった。(聞き手は論説委員・石丸賢、撮影・安部慶彦)

 ―先週、家族で引っ越されたそうですね。
 はい。事故後に長男と身を寄せていた広島市安佐北区の親元から太田川源流部の廿日市市吉和へ。福島にとどまっていた介護職の夫も合流し、親子3人の再スタートです。

 ―新天地で一から足場を固めるのは大ごとでしょう。
 私に限らず、人生設計や安心を根こそぎにされた避難者が広島県内だけでも500人以上。生活の立て直しで、どれほど大変な思いをしているか。「復興」どころではない。見通しが利かない、不安だらけの暮らしぶりが何よりの証しです。

    ◇

 ―大震災の時は福島市内にいたんでしたね。
 そうです。田んぼは阿武隈山地の飯舘村で作っていました。恵まれた広葉樹林や澄んだ水、高原の感じが大好きで。転居先に吉和を選んだのも風土が似ていたからなんです。

 ―第1原発からは約50キロ。ということは自主避難ですか。
 そうです。長男が生まれたばかりで「とにかく子どもを逃がさなきゃ」と夫や農業仲間に背中を押され、震災の翌々日に新潟から飛行機で大阪へ。そして広島まで戻りました。

 ―今年3月の本紙アンケートでは、肩身が狭いとこぼす自主避難者が目に付きました。
 うちは「福島から避難してきた」と言える分、救われているのかもしれません。「大変でしたね」といたわりの声が返ってきますから。東京や神奈川などから避難してこられた中には、周りの目に疑問符が浮かぶケースもあるようです。

 ―東電側は、自主避難は「身勝手」と言わんばかりの態度だと聞きます。
 東電が避難区域の住民だけを招いて広島で説明会を催したことがある。仲間の知らせで私も出向いたら「自主避難は自分の責任でしょ」と言われました。飛び散った放射性物質の情報を伏せて疑心暗鬼にさせておいて、避難したら「勝手に逃げた」と冷ややかに扱うのはおかしいと思いませんか。

    ◇

 ―被害者の「分断」は過去の公害事件でもありました。福島でも問題になっていますね。
 避難区域の線引きが分断を引き起こしているんです。同じ町の住民でも家に帰れる人がいる一方、仮設暮らしを余儀なくされる人がいる。賠償額にも差がある。「お互い、助かってよかったね」と肩をたたき合った一体感がバラバラになりかけているようで、残念でなりません。

 ―それで避難者ネットワークを呼び掛けたんですか。
 疑問や怒りが湧いても被災地の外では訴える先がなく、イライラが家族や仲間に向かいかねません。自主避難か否か、避難区域の内か外か。立場や意見は異なろうとも、手に手を携え合おうと。そんな思いで会の名前に「異」の字を当てました。

 ―違いを乗り越え、結集するための旗は何でしょう。
 原発事故のおかげで、お金や経済より大事なものが見えたんじゃないかと思うんです。何より大切なのは命だし、心安らかな人生を送ることのはずです。その原点を見失わなければ、分かり合えるはずです。

 ―避難者の中には東電関係者の家族もいます。原発の是非という違いは重たいですね。
 「こんな目に遭わせてなお再稼働を持ち出す政府って、あり得ない」と私があぜんとしていると、夫が諭すんです。「それじゃあ思考停止に陥るだけだよ。原発推進の側とも対話する回路を開かないと『原子力村』の壁は取り払えない」と。

 ―震災がれきの受け入れ問題も意見が割れたままです。
 それより子どもや妊産婦、体の弱い人を受け入れてほしいと望む会員もいます。ただ正直、今はみんな、物事を丁寧に考えるゆとりがありません。手を取り合い、まず暮らしを落ち着かせたい。必死なんです。

わたなべ・みわ
 広島市南区生まれ。東京での学生時代、休みに福島県川俣町で農業体験。四季の恵みを生かす里山生活を知り、「お金に頼らなくてもこんなに豊かに、幸せに暮らせるのか」と感動。農業を学び、人脈をつくって31歳から同県飯野町(現福島市)に移り住んだ。夫で東京出身の等々力隆広さん(49)と長男波志良ちゃん(1)、猫1匹が「家族」。被爆3世でもある。

(2012年5月16日朝刊掲載)

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