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社説・コラム

『論』 隠された地震 複合災害の今に生かす

■論説副主幹 佐田尾信作

 98歳にしてネクタイを締めて銀座に出掛け、洋食に少々のワインをたしなむ。取材などでお会いした記者OBとしては最高齢だろう。

 元中日新聞の山根康治郎さん。山口県玖珂町(現岩国市)生まれの義父真治郎氏もやはり新聞人で、現役記者を教育した「新聞学院」の創設者として知られる。

 山根さんは太平洋戦争開戦の1941(昭和16)年、朝日新聞に入ってこの学院に学び、中日新聞(当時は中部日本新聞)に移籍。44年12月7日、静岡県内で大きな地震に遭遇した。マグニチュード(M)7・9、死者・行方不明者約1200人を出した昭和東南海地震である。

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 今なら1面級の記事に違いない。余震の恐れもあるうえ、紙面を通じて支援を呼び掛ける必要がある。

 だが開戦4年目を迎えた翌日の1面は昭和天皇の「御真影」と詔書がトップを飾った。本紙では3面に10行足らず、「強震を感じ、被害を生じた所もある」とだけ。

 山根さんは当時、海軍兵学校に入隊していた。江田島から横須賀砲術学校へ飛行予科練習生を引率中、静岡県磐田町(当時)付近で汽車が立ち往生。首都圏に折り返す便がある駅まで徒歩などでたどり着く。途中、民家の太い柱がぐにゃりと曲がり、燃えさかる惨状を目撃した。

 翌朝、中日の東京総局と朝日の本社に軍服のまま出向いて窮状を伝えた。軍が出動すべしと訴えたが、「1行も載らなかった。軍人の自分には書けなかったしね」。

 この時、内務省検閲課は軍需工場の被害に触れない、現場写真は掲載しない―など6項目の注意点を各社に通達した。科学ジャーナリストの泊次郎さんが近年、勤務日誌から裏付けたが、なぜこれほど神経をとがらせたのか。

 敗戦の年を挟んだ4年間、日本は毎年死者千人を超す大地震に襲われていた。

 東南海地震の37日後には内陸直下型の三河地震(M6・8)が発生。紡績工場などを転用した軍需工場も大きな被害を受け、動員学徒に犠牲が出た。柱を切る「改築」をして、かえって耐震構造を弱めていた。人災と言っていいが、軍部は被災状況が漏れることを最も恐れたのだ。

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 44年といえば大本営は本土防衛の「捷(しょう)号作戦」を決定したものの、10月のフィリピン・レイテ沖海戦で海軍艦隊戦力は壊滅。本土も空襲の危機にさらされ始める。

 まさに内憂外患。この時期、終戦へ動く選択肢も日本にはあったのではないか。

 昭和史を検証する作家保阪正康さんに尋ねると、「国民の戦意はさらに衰えますが、軍部はより強硬になり、戦争継続を諦める理性は失っていたと思いますね」。

 軍部はある時は人災を天災と言いくるめ、ある時は天災への国民の不安や憤りをあらぬ方向に向けたのだろう。

 「隠された大震災」「三河地震 60年目の真実」などの優れたルポによると、中央気象台は軍部に従属させられ、被災地の調査はスパイ扱いされた。被災データがまとまるのは戦後、それも70年代。被災者の証言の掘り起こしは今も続いているという。

 被爆後の広島を襲った枕崎台風の記録「空白の天気図」が昨年夏、30年ぶりに再び文庫化された。著者柳田邦男さんは「核と災害」の一語と発生年月日を書名に追加し、現代へのメッセージにした。

 今や「複合災害」の時代に入った。戦時下にも戦災と地震・台風の複合災害はあった。「戦時災害史」とでもいう研究が必要かもしれない。歴史学、自然科学、ジャーナリズムなどが手を携え、新たな知見を得る努力をしよう。

(2012年5月24日朝刊掲載)

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