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社説・コラム

新藤兼人さんとヒロシマ 原爆の惨禍 執念で追う

 「原爆になぜわたしはこだわるのか。わたしが広島に生まれたからだ。わたしの市(まち)を原爆が木っ端微塵(みじん)にしたからだ」

 新藤兼人監督は、人生の同志でもあった乙羽信子さんを失った2年後の1996年に著した「ながい二人の道」で、原爆の惨禍をテーマにした映画作りに挑む理由をそう述べている。その乙羽さんを主演に招き、米軍などの占領が明けた52年に広島で撮ったのが「原爆の子」である。

 原爆で家族を奪われ瀬戸内の島に住む女教師が、教え子たちを訪ねるというストーリー。映画は、被爆の傷に実際に苦しむ女性たちも登場する。復興のつち音が高まる中、社会の片隅に追いやられていた人たちの姿を通し、被爆の実態をいち早く国内外に伝えた。

 「核兵器の実証により迫りたい」と配給契約がないまま59年には「第五福竜丸」を作る。米軍の水爆実験によるマグロ漁船員の被曝(ひばく)を見すえた。

 さらに88年には、原爆死した移動演劇隊員を描いた「さくら隊散る」を作った。「今日的課題である放射能の恐ろしさに焦点を絞った」と、広島での公開時に里帰りして語った。福島第1原発事故に直面する今日、視点の深さ、確かさが浮かび上がる。

 晩年も原爆をテーマにした映画作りへの執念は衰えなかった。

 「一個の原爆でどんなことがおこるかを描きたい」。中国新聞2003年8月3日付に映画「ヒロシマ」の制作構想を寄せた。原爆が人間の上でさく裂した直後の光景を映したい。世界の隅々にまで見てもらいたい。制作費は20億円と見込み、市や地元メディアにも協力を訴えた。

 「広島に生まれたことは私の背骨」。記者にもそう語った新藤監督の作品が未完に終わったのが惜しまれてならない。(編集委員・西本雅実)

(2012年5月31日朝刊掲載)

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