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社説・コラム

社説 新藤さんの「遺産」 原爆の作品化どう支援

 「戦争は終わっていない」。新藤兼人さんの最後の映画「一枚のハガキ」で、主人公の元2等兵はそう絶叫する。

 32歳で召集され、辛うじて生き延びた体験を60年以上、温めて結実させた。作品を見た天皇陛下に対し、新藤さんは「これで日本は変わります」と述べたという。映画の力で戦争を繰り返させない。強い自負の現れだったのかもしれない。

 100歳で旅立った老監督のメッセージを、私たちはどう受け継けばいいのだろう。

 被爆地広島出身の映画人として、原爆と核にも正面から向き合ってきた新藤さん。心残りがあるとすれば、「ヒロシマ」と名付けた映画が実現しないままだったことだろうか。

 9年前に構想を明らかにし、シナリオ第1稿も出来上がっていた。広島の人たちの命と日常の暮らしが、あの日いかに残酷に奪われたか。ダイレクトに表現するため、原爆がさく裂してから数秒間のさまざまな場面を再現したいとの意欲作である。

 広島市にも協力を求めたが前に進まなかった。20億円と試算した製作費が壁だったようだ。シナリオは「遺産」であり、被爆地への宿題でもあろう。

 新藤さんの代表作「原爆の子」を思い起こしたい。被爆から7年後の広島の街をフィルムに刻み、懸命に生きる子どもたちの姿を描いた。映画史に残る名作であるのは間違いない。

 撮影当時は独立プロを設立して間もなくで自主制作扱い。資金も乏しい。だが街挙げてのロケ協力に支えられ、何とか封切りにこぎつけた。全国でヒットし、占領下でほとんど伝えられなかった原爆被害を知らしめる役割を果たしたといえる。

 その後、日本の映画界では原爆をテーマにしたさまざまな作品が生まれた。新藤さんも原爆に遭った移動演劇隊を描く「さくら隊散る」を撮った。しかし冷戦終結を境に、原爆と正面から向き合う作品が次第に減ってきたのは確かだろう。

 いま被爆地では証言者の高齢化とともに、被爆体験をじかに聞く機会が少なくなっている。

 被爆資料や手記、証言ビデオなどを通じ、ありのままを継承する努力はむろん重要だ。爆心地周辺の町並みをコンピューターグラフィックス(CG)映像で再現する取り組みも進む。

 加えて、「物語の力」によって国内外に発信していく営みも欠かせないのではないか。

 8年前の黒木和雄監督の映画「父と暮せば」は記憶に新しい。井上ひさしさんの戯曲が原作。原爆で生き残った若い女性の葛藤をリアルに伝え、世代を超えて感動を広げた。

 映像だけではない。最近では漫画家こうの史代さんの「夕凪(ゆうなぎ)の街 桜の国」が被爆者一家の生きざまを描いてロングセラーに。映画化もされた。

 若い世代は原爆の被害を学んでもぴんとこないのが現実だろう。こうした「作品化」は、遠い戦争の時代を身近に感じさせる点で大きな意味がある。

 被爆地として後押しする姿勢が求められる。とはいえ財政難の折、広島県や広島市がぽんと出資するのは難しい。民間の賛同を募り、基金などを通じて助成していく手もあろう。

 新藤さんが残したシナリオも何らかの形で生かせないか。いま一度、知恵を絞りたい。

(2012年6月2日朝刊掲載)

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