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社説・コラム

『論』 原発事故のけじめ 政治家の「責任」で済まぬ

■論説主幹 江種則貴

 関西電力大飯原発3、4号機(福井県)の再稼働が秒読み段階に入った。

 夏のピーク時の電力不足は確かに不安だが、今なし崩し的に原発を動かすのはいかがなものだろう―。12日付の社説で、再稼働へ前のめりに映る野田佳彦首相の姿勢を疑問視する主張をした。

 すると読者から意見が寄せられた。「電力供給に余裕がある中国地方だから言える理想論ではなかろうか」と。こちらに筆不足があったかもしれないので、この場を使って補足したい。

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 福島第1原発の事故で崩れ去ったのは原発の「安全神話」だ。全ての電源が失われ、炉心溶融(メルトダウン)と水素爆発を起こして放射性物質が飛び散った。

 電源喪失は大津波で水をかぶったためだとの見方がもっぱら。だが、地震の揺れがどこまで影響したのか、完全には解明されていない。

 さらに、緊急時に電源がなくても原子炉を冷やす非常用復水器が停止したが現場ですぐには見抜けなかった。炉内の圧力を下げるベント作業もはかどらなかった。こうしたミスや遅れがなぜ生じ、防げたなら水素爆発に至らなかったのかも分かっていない。

 事故から1年3カ月の今も原因究明は途上にある。なのに国会事故調査委員会での最近のやりとりからも、究明への熱意は感じられなかった。

 「記憶がよみがえってこない」と繰り返した東京電力の清水正孝前社長。「原発は国策であり、事故を止められなかった最大の責任は国にある」とわびた菅直人前首相。

 大飯原発の再稼働をめぐる野田首相の発言にも首をかしげたくなる。「最終責任者は私だ。(安全に)万全を期すことで責任を果たす」

 社説でも指摘したように、再稼働のための安全基準は暫定的な内容であり、安全運転の監視役となる政府の原子力規制組織も発足していない。大飯原発で緊急対応の拠点となる免震重要棟が完成するのは3年先だ。

 菅前首相や野田首相が口にする「責任」が何とも軽々しく聞こえる。事故原因が未解明なうえ、安全対策も不十分なままでは、いったい事故からどんな教訓を学び取ったのか、疑わしくなるからだ。

 夏場に限定した再稼働を主張する滋賀県の嘉田由紀子知事が、「安全神話に逆戻りしたかのようだ」と野田首相の発言に苦言を呈したのも無理はない。

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 首相と前首相の発言に違和感が残るのは、万一の事故が起きれば政治家の「責任」では済まないからでもある。福島の事故でも明らかなように、膨大な賠償は電力会社だけでは到底賄えず、巡り巡って国民の負担となる。

 その意味でも大飯原発の再稼働は全国民にとって、決して人ごとではない。

 あの大震災で私たちは地域や家族の絆の大切さを思い知らされた。同時に原発事故は豊富なモノとエネルギーに囲まれてきた暮らしの再考を迫ったといえよう。拙速な再稼働が、今を見つめ直し、将来の暮らし方を探る機運に水を差すことも気掛かりだ。

 原子力基本法がうたう「民主、自主、公開」の三原則をあらためて思い起こしたい。

 もともと海外発の技術を国策民営で使いこなそうとしたのが「自主」の意味だろう。国民監視の下で炉を動かし、事故時も含めて情報をありのまま伝えるのが「公開」だ。

 そして「民主」とは、原発推進か脱原発かで考え方が違っても、わだかまりなく議論していくことではないか。

 言い換えれば、原発の将来を決める最終責任者は全ての国民にほかならない。

(2012年6月14日朝刊掲載)

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