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社説・コラム

視点2012 戦争遺跡どう生かす

「交流拠点に」住民動く

崩落の危険性 市は難色

 太平洋戦争末期、倉敷市南部の小さな山を掘削して造られた軍需施設「亀島山地下工場」跡の保存、公開を目指す住民運動が広がっている。教員や郷土史家たちのグループによる調査に続き、地元住民たちが「地域の交流拠点に」と活動を始めた。一方、トンネル崩壊の危険や財政難を理由に倉敷市は消極的だ。(永山啓一)

 倉敷市の水島コンビナート近くにある標高わずか78メートルの亀島山。その山を掘り、築かれた地下工場跡には、総延長約2キロのトンネルが網の目のように張り巡らされている。

 「国内でも有数の規模の戦争遺跡。保存や活用法を考えないと存在さえ知る人がいなくなる」。調査を続ける教員や郷土史家たちでつくる「亀島山地下工場を語りつぐ会」の上羽修副代表(69)=岡山市中区=は訴える。

 地下工場は1945年4月ごろ、攻撃機を製造していた三菱重工業水島航空機製作所の疎開先として順次、操業を始めた。並行して掘削工事も終戦まで進んだ。危険な掘削は朝鮮人労働者が担った。

過酷な労働環境

 当時、地下工場の工具づくりの担当だった山内大吉さん(84)=総社市泉=は「奥の掘削現場で発破するたびにごう音がし、火薬の臭いが充満した。最初は外へ逃げたが、次第に慣れて作業を続けるようになった」と過酷な労働環境を証言する。

 45年6月、水島航空機製作所は大規模な空襲を受け、地下工場だけの稼働になった。暗闇の中、裸電球での作業が続いた。山内さんは「いよいよ本土決戦だと思っていた」と緊迫した状況を振り返る。工場跡には今もハンマーとノミを使って岩盤を削った跡や、工作機械を据え付けた跡が生々しく残る。

 語りつぐ会の活動を受け、昨年秋から水島地区の住民も動き始めた。

 朝市などのイベントを開いている「水島の未来を考える会」の岡野弘会長(80)=倉敷市中畝=は「地域の歴史や戦争との関わりを語り継ぐには欠かせない場所。工場跡に修学旅行を誘致することで地域活性化もしたい」と強調。市が主体となっての保存、公開を求める署名活動を近く、始めるという。

 現段階で市は保存、公開に否定的だ。桑木淳一総務部次長は「内部には崩落の危険がある場所もある。埋め戻すだけで数億円かかる。学校の耐震化もままならない中で多額の費用をかけて補強し、公開する価値はない」と話す。

入り口 金網設置

 市が消極的な背景には2005年、鹿児島市の防空壕(ごう)跡で遊んでいた中学生が窒息死した事故の影響がある。倉敷市は07年、それまで自由に出入りできていた工場跡入り口に金網を設置。鍵を地権者の住民に預け、内部に入らないよう求めている。

 市は昨年度、約200万円をかけて地下工場跡内部を撮影したDVDを制作。小学校などに配布し、工場跡に入ることなく平和学習に活用してもらう、としている。

 戦争体験の風化が進む中、体験継承のため戦争遺跡を守る重要性は増している。文化財としての保存と公開を念頭に置いた活用は、歴史的な価値を裏付ける詳細調査と安全対策が前提となる。行政の支援が不可欠だ。

 「戦争遺跡保存全国ネットワーク」代表を務める山梨学院大の十菱駿武客員教授(67)は「国史跡級の価値はある。一部のみの保存、公開で経費を抑える方法もある」と指摘する。市は住民、専門家で知恵を出し合い、次代に伝える方法を探ってほしい。

亀島山地下工場跡
 東西に長さ183~142メートルのトンネル5本が約30メートル間隔で並ぶ。さらにその間をつなぐように28本のトンネルがほぼ南北に張り巡らされている。トンネルは最大で高さ3・9メートル、幅6・5メートル。三菱重工業水島航空機製作所の疎開先工場として終戦直前に稼働していたのは、このうちの数本。昼夜交代人員を含め約700人が働いたとみられる。戦後、国や三菱重工業が所有権を主張しなかったため、倉敷市は「地上の地権者に所有権がある」としている。

(2012年7月27日朝刊掲載)

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