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社説・コラム

社説 外交文書と沖縄 基地恒久化 なぜ認めた

 「日本の防衛ということなら沖縄は要らない。沖縄の基地を必要とするのは極東の安全のためだ」

 佐藤栄作政権下の1967年、米国高官が日本の外務省高官にこう言明していたことが、同省が公開した外交文書から分かった。政権が沖縄返還交渉を本格化させた時期である。

 半世紀近くさかのぼるものの、過去の話とはいえない。全国の米軍専用施設面積の74%、訓練区域の64%が集中する現実の沖縄がまさに、そう位置付けられているからだ。

 オスプレイに揺れる沖縄では先月下旬、やはり安全性に疑念がつきまとうF22ステルス戦闘機の嘉手納基地への暫定配備が新たに浮上した。自治体への事前説明はなかった、という。県民の安心・安全はまたも置き去りにされた格好である。

 67年の外交文書でも米高官は最初から「上から目線」だった。「自由な基地使用が確保されるなら」いつでも全面返還するし、「(基地の扱いが)本土並みなら」沖縄から引き揚げる、という点などそうだろう。

 当時の三木武夫外相と米国務長官、国防長官との会談では、核基地が沖縄にあることは絶対的要件か、と聞いたところ、米側は核基地の選択肢(確保)が要件だ、と答えた。一時は米側は「核抜きの容認」も、ちらつかせたようだ。

 一連のやりとりは、本質は同じと見ていいだろう。

 祖国復帰は県民の悲願だった。27年間に及ぶ占領時代、復帰運動は土地強制収用という、生活を直接脅かす軍政への反発であり、基地の拡張・恒久化への抵抗だった。ところが、その陰で、日本の政治や外交は返還後の「自由な基地使用」の流れを押し止められなかった。そこに県民の基本的人権を尊重する理念はなかったのだろうか。

 佐藤政権は沖縄返還について、「核抜き・本土並み」を公言していた。核兵器を撤去し、日米安保条約に基づく事前協議制を適用する―。しかし、実際の外交では繊維交渉なども絡む中、米国の高圧的な姿勢に屈していたのではないか。それが現在に至る「核持ち込み密約」の疑惑を生んでいる。

 米からすれば、紛争地域への介入に必要だからこそ、安保条約を結んだ。「沖縄の基地を必要とするのは極東の安全のためだ」という言は、既定路線をなぞったものであろう。返還協議で米戦略を追認した形になり、基地の恒久化につながった。

 民主党政権発足後、日米の核密約調査をきっかけに外交文書の在り方の検討が始まり、2010年、安保改定と沖縄返還について公開された。作成後30年を経た後の自動公開。米国側の文書が頼りだった日米戦後史が、日本側資料と併せて解明できるようになった。

 今回の文書には「日本の防衛は日本の責任で」という米側のメッセージも読み取れる。だからといって応分の軍事負担を肯定するような議論に、これを結び付けてもらっては困る。

 沖縄の負担軽減のために公開文書をさらに精査し、生かす道を探る必要があろう。冷戦時代の米戦略は見直されるべきだ、という国民世論を喚起したい。

 遅きに失した感はあるが、過去に向き合うことは民主国家の責務である。

(2012年8月3日朝刊掲載)

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