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社説・コラム

今を読む 広島テレビ社長 三山秀昭 ヤン・レツルの故国を訪ねて

忘却にどう向き合うのか

 原爆ドームは特異な世界遺産だ。過ちを教訓とし、現在に、未来に、人類全体に、強いメッセージを発し続けているからだ。ただ、原爆ドームがチェコ人、ヤン・レツルの設計によることは、広島県民でも知る人は少ない。明治末期に27歳で来日した彼は、日本で幾つかの建築物を設計したが、多くが震災や戦災で焼失、今は原爆ドーム(建設当時は広島県物産陳列館)と、東京の聖心女学院の正門に面影を残すだけだ。

 私は別の理由でチェコにシンパシーを抱いているため、レツルに興味を感じ、7月末に彼の故国チェコを訪ねた。

 まず、「別の理由」に触れたい。実は私は1968年8月20日、横浜発のソ連船でモスクワに向かっていた。その日にソ連がチェコに軍事侵攻した。当時、多くのチェコ国民は「自由」を求め、チェコ政府もそれを推進していた。「プラハの春」だ。東欧各国へのドミノを恐れたソ連はチェコ全土に侵攻、戦車で「プラハの春」を押しつぶした。私は強い関心を持ち、ウィーンから列車でプラハへ入った。

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 そこで見たものはソ連の大国主義と、悲しい抵抗を試みるプラハ市民の姿。チェコ人約100人が死亡、多数の重傷者が出たという。市民は道路標識を塗りつぶし、土地勘のないソ連兵を困惑させ、ソ連軍の砲撃で破壊されたビルの壁に「モスクワ→」と落書きすることで「モスクワに帰れ」の意思を示すしかなかった。国立博物館には砲撃の弾痕が無数に残る。市民は「ソ連軍は放送局を制圧するはずが、間違って博物館を攻撃した」と皮肉るのが精いっぱい。毎晩、博物館前には自然に人々が集まり、犠牲者を哀悼し、涙ながらにチェコ国歌を歌っていた。

 当時の私の拙いエッセーには「ソ連軍の侵略は帝国主義だ。チェコの民主化は一時ブレーキがかかっても、やがて必ず、プラハの春は花咲くだろう」とつづっている。

 あれから44年経過した今回のプラハ再訪。何と国立博物館の黒っぽい円柱や壁には、今も砲撃の跡が数多く残っていた。「惨劇を忘れないために、わざと黄色っぽいセメントを砲撃の跡に塗り込み、目立つようにしている」と語る老人。また、放送局の正面の柱には「私たちはあなたたちと共にいる」と、ソ連軍の攻撃の中でも、ラジオで国民に呼びかけ続けた言葉が、プレートに彫り込まれていた。

 89年、ベルリンの壁が崩壊し、冷戦が終結、東欧革命は波状的に広がり、ソ連自体の解体へとつながる。「プラハの春」で自由を求めた萌芽(ほうが)は、力で歯車を逆戻りさせられないことを後の国際情勢が証明している。

 さて、本題のヤン・レツルに移ろう。若くして日本に渡ったためチェコでは無名だ。それでも足跡を求め、ムシェネー温泉を目指した。プラハから車で1時間、自然が美しい保養地だ。受付の女性は「裏の建物と先のあれがレツルの設計だ」と説明してくれ、「広島から来たのか」と問い返した。だが、チェコで彼の存在を感じさせるのは、これくらいだ。

 プラハの街はロマネスク時代の多くの建築物が丁寧に保存され、やはり世界遺産に登録されている。近年、日本人旅行客も多い。経済産業省の建物は、中央にドームを抱えるため、旅行ガイドが「広島の原爆ドームと同じレツルの設計」と説明することがあると聞いた。しかし、別人の設計であることが判明している。誤りが独り歩きしているのだ。

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 さて、昨年、ショッキングな調査が発表された。広島市内の小学4年から6年生で原爆投下の8時15分を知っていたのは33%で、中学生でも56%。5年前調査より急落していた。中学、高校生は「8・6」は知っているが、「8・9」となると「?」となるという。生粋の広島生まれの企業幹部は「原爆ドームがチェコ人の設計と知る人は県民の1割もいない」と言う。

 時の流れは、忘却を生み、無知にもつながる。メディア関係者として、「8・6」報道の継続と工夫の必要性を痛感する。同時に「平和教育」のあり方も検証の必要があろう。

 8月6日は、まもなくだ。

広島テレビ社長 三山秀昭
 46年富山県生まれ。早稲田大卒。読売新聞記者、ワシントン特派員、政治部長など歴任。昨年6月から現職。

(2012年8月4日朝刊掲載)

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