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社説・コラム

視点 8・6を振り返って 「核依存社会」 脱却を目指せ

■センター長兼特別編集委員 田城明

 原爆の惨禍から67年を迎えた6日の広島。平和記念公園の原爆慰霊碑前では終日、犠牲者を悼む人の列が続いた。一方で市内であったさまざまな集会やデモでは、「核兵器も原発も要らない」との声が、福島第1原発事故を起こした昨年以上に高まった。

 松井一実市長は自身初の昨年の平和宣言に続いて、間接的ながら「核と人類は共存できない」との表現を使った。

 この言葉を最初に使用したのは、「反核の父」と呼ばれた広島の被爆者で核実験のたびに慰霊碑前で抗議の座り込みを続けた森滝市郎さん(1901~94年)である。被爆30年の75年、原水爆禁止世界大会の基調演説で彼はこう訴えた。

 「私たちは今日まで核の軍事利用を絶対に否定し続けて来ましたが、いまや核の平和利用と呼ばれる核分裂エネルギーの利用をも否定しなければならぬ核時代に突入したのであります。(略)結局、核と人類は共存できないのであります」

 一発の原爆がもたらした熱線と爆風、放射線によって未曽有の体験をした広島の戦後の歩みには、核兵器に強く反対することはあっても、50年代に始まった核の平和利用に反対する思想はなかった。むしろ森滝さんを含めた多くの被爆者だけでなく、私たちマスコミも、味わった体験の悲惨さゆえに核エネルギーの平和利用に「ばら色の未来」を夢見たのだ。

 米大使館の多額の財政支援の下、広島県や市、中国新聞社などが協賛して、原爆資料館が開館して1年もたたない56年に被爆現物資料などを他へ移動し、「原子力平和利用博覧会」を大々的に開いたことが、その事実を物語っていよう。

 倫理学者でもあった森滝さんが原発に疑問を抱くようになったのは、国際的な平和活動を通して、放射線被害に苦しむ米国のウラン鉱山労働者ら世界各地に多くのヒバクシャが存在することを認識し始めた60年代後半からだ。

 原発利用で生まれる使用済み核燃料には、危険な核分裂物質が大量に含まれ、処分方法も決まらない。そこから取り出される半減期2万4千年のプルトニウムは、軍事利用にも転用される。70年代にかけて森滝さんの平和利用への疑念は、確信に変わっていった。

 インド、パキスタン、イスラエル、北朝鮮…。実際、同じ核物質を使う平和利用は、核拡散につながってきたのだ。この状況は今も変わらない上に、核テロの危険も加わった。

 松井市長は宣言の中で、日本政府に対して「市民の暮らしと安全を守るためのエネルギー政策を一刻も早く確立してください」と訴えた。福島県民の「暮らしと安全」は、昨年の炉心溶融事故で根こそぎ奪われ、1年5カ月たった今も約16万人が避難生活を余儀なくされているのが実情だ。農業や漁業、観光にも深刻な影響を及ぼし続けている。これからも長く続くフクシマの惨事は「核と人類が共存できない」ことを十分に証していよう。

 「原発は要らない」という運動の広がりは、「もうヒバクシャをつくらないでほしい」という個々の市民の切実な願いの反映である。その動きは、必ずや核兵器廃絶に向けた市民のエネルギーとして相乗効果を発揮するだろう。米国の「核の傘」に依存する政府の政策変更を求める力にもつながっていくに違いない。

 こうした世論の声を受けとめるべき野田佳彦首相の式典あいさつは、核兵器廃絶に向けた決意においても、脱原発依存に対する姿勢においても、中身も熱意も伴わない空疎なものであった。政局に心が奪われているのか、「心、広島にあらず」と言った印象さえ受けたのは、私一人ではないだろう。

 もう一つ、強く印象に残った点を記しておきたい。原爆投下を命令したトルーマン米大統領の孫で、作家のクリフトン・トルーマン・ダニエルさん(55)=シカゴ市=と広島・長崎両方の原爆投下機に乗った米兵の孫、アリ・ビーザーさん(24)=ロサンゼルス市=が式典に参列。広島滞在中、加害、被害のわだかまりを越え、被爆者と交流したのも「和解」という点で象徴的な意味があった。

 むろん、孫たちの世代に責任があるわけではない。それでもトルーマンや原爆投下機の兵士の孫というだけで「非難されるのではないか」と身構えてしまうのもうなずける。

 何人もの被爆者の体験に熱心に耳を傾けながら、時に涙を浮かべることもあったダニエルさん。それでも一人の人間として「広島に受け入れられている」という安堵(あんど)感からか表情は柔らかい。招いた佐々木禎子さんの兄の雅弘さん(71)=福岡市=は「広島に着いたときの緊張感は随分ほぐれました」とその変化を言い表した。

 「被爆者にもっと米国に来て証言してもらえるようにしたい」とダニエルさん。「多くの米国人、特に第2次世界大戦を経験した元米兵に広島訪問を呼び掛けたい」とも。

 2人は、ある会場でサダコストーリーを製作中のイラン人映画監督ら3人と出会い、核兵器のない世界をつくるために互いに努力することを約束していた。国同士は対立していても、核兵器廃絶や平和を願って地道な行動を続けるヒロシマは、人々を心で結ぶ「仲介の地」としてもふさわしい。

 「核兵器なき世界」を目指す昨今の現状は厳しい。昨年2月に米ロ新戦略兵器削減条約(新START)が発効したものの、両国をはじめ核保有国の核軍縮・廃絶への歩みは遅々としている。

 だが、一方で核兵器使用がもたらす被害の非人道性への認識と、法的に核兵器を全面禁止しようとの動きは、確実に世界に広がりつつある。被爆68年への一歩を踏み出した今、私たちはヒロシマ・ナガサキ・ビキニ・フクシマの経験から教訓をくみとり、「核依存社会」からの脱却への道を勇気をもって歩んでいこう。そのことが「過ちは繰(くり)返しませぬから」と原爆犠牲者に誓った道であり、被爆国日本が世界に貢献できる道でもある。

(2012年8月8日朝刊掲載)

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