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社説・コラム

『論』 「本土決戦」と特攻 極限思い 記録続けよう

■論説副主幹 佐田尾信作

 隣に立つ石原裕次郎は「ヒコーキ野郎」の役。神奈川県横須賀市の磯部利彦さん(91)が自慢の写真を見せる。「私は裕ちゃんの吹き替え役。日活のロケは家族的でね」

 松江市生まれで民間航空の元機長。戦時中は海軍兵学校出身の飛行教官だった。茨城県・霞ケ浦で訓練中、機上火災に遭って重傷を負い、退院後、土浦の山中に隧道(ずいどう)を掘った第十航空艦隊司令部で、ある作戦立案を命じられた。

 それは傘下の練習航空隊に配備されていた九三式陸上中間練習機(九三中練)、別名「赤とんぼ」を中心にした特攻隊の編成。1945年7月のことである。不眠不休で作業は終えたものの、実戦に入ることなく終戦を迎えた。

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 戦争末期、飛行機も搭乗員も足りない。ならば学徒出身者を養成課程抜きで練習機に乗せ、敵艦に突入させる―。「そうなれば国民は阿鼻(あび)叫喚地獄を見たでしょう」

 そもそも物資の裏付けはあったのか。払底したガソリンはアルコールで水増し。九三中練はエンジン不調が多かった。各隊の「数字」を根拠に立案したという磯部さんも「詳しいことは今はもう思い出せない」とつぶやく。

 英領マレー半島やハワイ真珠湾への攻撃に始まり、原爆投下とソ連参戦で終結した太平洋戦争。国力の差は歴然としていながら、なぜ軍部は沖縄を犠牲にし、「本土決戦」を呼号したのか。中でも「特攻」は不条理に満ちている。

 海軍予科練を志願した元教員瀬尾斉さん(84)=広島県神石高原町=は終戦間際、霞ケ浦でロケット戦闘機「秋水」の搭乗員だった。ドイツの技術で開発途上の秘密兵器。高度1万メートルに3分半で到達して「超空の要塞(ようさい)」B29を迎撃、滑空して帰投する―。

 経験のない訓練ばかり。そりで滑り込む着陸をしたり、高さ2メートルの減圧タンクに1人閉じこめられたりした。「この世の終わりかと思いました」。終戦が遅れたら、自爆戦法の可能性もあった。

 戦闘機だけではない。練習機も偵察員教育の「白菊」は特攻に出撃。水上では陸軍の四式連絡艇(マルレ)や海軍の「震洋」といった特攻艇が九州や四国に配備された。

 記者が聞いた証言によると、マルレは敵艦に接触して爆雷を投下し、脱出する建前だ。だがエンジンをふかすと、よく止まる。「とてもじゃない、生きて帰れん」。元搭乗員たちは口をそろえた。

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 震洋隊長だった作家島尾敏雄の小説「魚雷艇学生」に、終(つい)の命を託す艇だと勇んでいたら緑のペンキも色あせた小船で落胆した、というくだりがある。死を覚悟した者は恐怖と自己を美化したい意識が複雑に絡み合うのか。まして学徒出身の若者たちである。

 「特攻生みの親」と呼ばれる海軍軍人大西瀧治郎は「特攻を出さずに負けたら真の亡国になる」と考えたという(太田尚樹著「天皇と特攻隊」)。もはや勝つためではない。極限状況の葛藤が利用されたかと思うと切ない。

 米軍はマルレや震洋を「自殺艇」と呼んだ。悲しいが、人を生かす兵器ではない。翻って現代日本の自殺者数は14年連続で3万人を超え、「インナーウォー(心の戦争)」と呼ばれて久しい。戦時下の強いられた死を思い、死への羨望(せんぼう)より生への渇望を選び取る思考を紡ぎたい。

 人に生ある限り、肉声を聞く機会は日々失われる。記録文献へのこだわりが大切になる。著書に「『戦争体験』の戦後史」がある社会学者福間良明さんは「体験を分かりやすく伝えようとして、どれだけの伝承がこぼれ落ちてきただろう」と問う。それを拾い上げることも必要になろう。

(2012年8月9日朝刊掲載)

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