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社説・コラム

イランと日本 平和つなぐ 8・6参列「ヒロシマに学ぶ」

 
化学兵器被害 若者に訴え

 イラン人と結婚し、テヘランで暮らして半世紀余りになるサバ・ババイ(山村邦子)さん(74)。同国の化学兵器被害者支援協会(SCWVS)メンバーとして広島市での平和記念式典に参列した。イラン・イラク戦争(1980~88年)で次男を亡くし、退職後、日本とイランをつないで平和の尊さを訴えている。(広田恭祥)

 「戦争の醜さを伝えていく」。6日、イランの毒ガス被害者たちと5度目の式典に臨んだババイさんは誓う。広島市のNPO法人モーストの会との交流は9年目となる。

 前日、宮島にある広島経済大の研修施設で学生約20人の歓迎を受けた。「イランのことや化学兵器の被害を、日本の若い人に知ってほしい」。来日した一行にはテヘラン大で日本語を学ぶマルヤム・サーレヒさん(23)の姿も。次代を担う力に表情は明るかった。

 ババイさんは兵庫県芦屋市の出身。英語の専門学校生だった21歳の時、繊維製品の貿易をしていたアサドラ・ババイさんに出会った。両親に猛反対されたが、改宗を決意して59年に結婚した。

 日本にいる間に長男を授かり、家族でテヘランの地を踏んだのは61年。「生活の全てに通じる」というコーランの教えも、ペルシャ語も独学した。わが子の教科書を読み、女性の勉強会に通った。

 新生活はだが、社会変革の渦に巻き込まれる。反王制の運動の広がりを、夫たちのようなバザール商人が経済的に支えていた。

 79年2月のイラン革命前。ババイさんは長女と連日、デモに加わった。いつ捕まるか分からず、親子とも手のひらに住所を書いた。各家庭では火炎瓶を作り、負傷者を手当てした。「民衆が公平と独立を勝ち取った」

 宗教指導者による統治となったイランに翌80年、隣国イラクが侵攻する。83年、19歳だったババイさんの次男ムハンマドさんは2度目の戦地で被弾。大学の合格通知が届いたのは1カ月後だった。悲しみを越え「責任を全うして殉教した息子。死後の世界で幸せに暮らしている」と話す。

 小学校教諭を経てイスラム文化指導省を退職。毒ガス被害者との関わりは、2004年にモーストの会の津谷静子理事長(57)と出会ってからだ。自身も国内の被害を知らなかった。「ヒロシマは世界に知られているが、イランの被害者は見捨てられていた」という。

 その後、被害を受けた町や村への訪問に同行。通訳で広島市や毒ガス工場のあった大久野島(竹原市)も訪れた。07年に開館したテヘラン平和博物館では週2、3回、ボランティアで案内を続ける。

 混迷する国際情勢の渦中にあるイラン。「広島に学び、平和教育のプログラムを考えたい」とババイさん。児童の絵画交流の夢も描く。意欲を保つ健康法は水泳という。若い後継者も心の支えだ。「平和の道に終わりはありません」

イラン・イラク戦争での毒ガス使用
 イラク軍は国境付近を中心に兵士や市民に対してびらん性のマスタードガスなどを使用。一部は自国のクルド人居住区にも使った。攻撃はイラン側推計で約300回。10万人以上が重傷、戦場で6千人以上が死亡。約6万5千人が後遺症を患っているという。

(2012年8月10日朝刊掲載)

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