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社説・コラム

『潮流』 蜂谷医師の願い

■岡山支局長 岩崎信明

 「核のない平和な世界」が蜂谷道彦医師(1903~80年)の願いだった。広島に原爆が投下された当時、広島逓信病院の院長だった人である。

 爆心から1キロ余りの自宅で被爆し、血まみれになりながらも病院に駆け付け被爆者を治療した。56日間の体験を「ヒロシマ日記」として55年に出版し、原爆や放射能の恐怖は世界各国に翻訳されて伝えられた。

 山陽自動車道岡山インターにほど近い岡山市北区富原。田園風景が広がるこの地は蜂谷医師の古里だ。生家は昔は大きな庄屋だったが、現在は近所の人が譲り受け管理している。

 昨年8月6日、生家に近い富原公民館の中庭に顕彰碑が建立された。蜂谷医師の被爆当時の献身的な姿を後世に伝えようと、地元津高地区の有志が中心になって寄金を募った。

 あれから1年が過ぎた。顕彰する会事務局長の森暢子さん(80)は「どう地域の子どもたちに継承していくかが大事でしょうね」と語る。「日記」を報道した外国の新聞のスクラップや著書など遺品も数多くあり、今後、資料展など開くことを検討している。

 富原公民館は児童が登校する際の集合場所になっている。今は夏休みだが、学校が始まると毎朝、元気な声が響く。自然と碑を目にすることだろう。古里に立派な人がいたことを知ってほしい。そんな思いも込められている。

 戦後67年、戦争体験や被爆体験は風化しつつある。岡山県内の被爆者も高齢化が進み、被爆者健康手帳を持つ人はことし3月末現在で2099人、平均年齢は79・9歳に達している。

 一方、昨年起きた福島第1原発事故では見えない放射能汚染におびえ、古里を離れざるを得なかった人たちが多数いる。

 「ヒロシマ日記」を読み直したい。蜂谷医師なら何を思うだろうか。

(2012年8月14日朝刊掲載)

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