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社説・コラム

『言』 平和市長会議30年 禁止条約へ世界と連帯

◆スティーブン・リーパー 広島平和文化センター理事長

 広島、長崎両市長の呼び掛けで発足した平和市長会議(会長・松井一実広島市長)が今年で30年を迎えた。いまや153カ国・地域の5312都市を抱える。賛同が広がった背景と今後の課題について、平和市長会議が事務局を置く広島平和文化センターのスティーブン・リーパー理事長(64)に聞いた。(聞き手は論説委員・金崎由美、撮影・高橋洋史)

  ―ここ数年、加盟都市数が急増していますね。
 2008年から加盟を募り始めた日本国内は現在、1159区市町村にまで拡大しました。一方、海外での急増は米ニューヨークの国連本部で活動する欧米の反核非政府組織(NGO)と協力関係を築いたことが寄与しています。秋葉忠利前市長の貢献が大きい。私自身も長年広島に住み、平和市長会議の文書の英訳などに携わった経験や人脈を生かすことができました。

    ◇

  ―NGOの協力とは。
 平和市長会議とは、市民を守る都市の代表が国境の垣根を越えて核兵器廃絶を目指す組織です。反核NGOにとって連携は望むところ。国連での市長演説の橋渡しや、核兵器禁止条約の署名活動、各国での会員獲得に協力してくれています。

  ―1982年の第2回国連軍縮特別総会で当時の荒木武市長が呼び掛けて発足したのが前身の世界平和連帯都市市長会議。そのころと比べて活動は様変わりしていますね。
 核兵器禁止条約の締結と2020年までの核兵器廃絶を求めるキャンペーンを始めた10年ほど前が転換点だったと思います。市長同士の集いから、世界の市民やNGOを巻き込んだ運動へと踏み込んだからです。それが会員数を押し上げる好循環にもつながりました。

  ―20年までの核兵器廃絶はちょっと無理では。
 期限を区切るのは、一日も早い廃絶を目指さなければならないからです。われわれの活動は被爆者の実体験と共にあります。被爆者が生きているうちに、再び核兵器のない世界にしたい。歴史の変化は一気に訪れるものです。目指すことなしには何も起こりません。

  ―会員が増え、運営には苦労しませんか。
 加盟都市の人口を足すと10億人。これだけの規模の反核ネットワークはほかにないでしょう。ただ、それゆえの悩みもあります。どの会員都市も市長が交代します。参加意識を持続させるのは簡単ではありません。広島が5300都市のすべてと信頼関係を築くことも物理的には不可能です。

  ―どう改善しますか。
 各地域に支部を置き、リーダー都市にまとめ役になってもらう案を考えています。年会費の徴収も始める方向で検討を進めています。組織基盤の強化という積み残しの課題をまさに今、松井市長が解決しようとしているのです。

 ―世界各地の市民にとっては紛争や人権弾圧なども脅威です。平和市長会議の活動の幅を広げてもいいのでは。
 多種多様な問題について加盟都市の総意をまとめることは難しい。その国の内政事情を知らずに発言すれば、政治利用される危険があります。個人的には割り切れなさもありますが、核兵器廃絶という一点で世界と連帯していくべきでしょう。

    ◇

 ―これから核兵器廃絶にどう取り組みますか。
 対人地雷やクラスター弾の禁止条約は国際世論と一部の国の主導で実現し、次は核兵器だというのが国際的な潮流です。明るい兆しはあります。ノルウェーなど16カ国が今春の核拡散防止条約(NPT)準備委員会で、非人道性を理由に核兵器の違法化を求める声明を出しました。このような機運を後押しする具体策が必要です。

 ―米国の核抑止力に頼る日本政府にこそ真っ先に働き掛けるべきではないですか。
 日本を含むすべての国に核兵器禁止条約の交渉開始を訴えています。ただ私自身は、条約に熱心な国々と連携して国際世論を盛り上げることが目標達成の近道ではないかと考えます。機運が盛り上がるほど、消極的な国の立場は苦しくなる。日本政府を取り囲むプレッシャーになるはずです。

スティーブン・リーパー
 米イリノイ州生まれ。1969年、フロリダ州エッカード大卒。日本での英語教師などを経て78年にウエストジョージア大で修士号(臨床心理学)を取得。86年に広島市で翻訳・通訳会社を共同設立。被爆体験証言の通訳などに携わる。2001年、米国に帰国。翌年、平和市長会議の現地スタッフに。03年に米国滞在の広島平和文化センター専門委員となり、07年、理事長に就任した。

(2012年8月15日朝刊掲載)

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