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社説・コラム

天風録 「左腕」の教え

 机に乗りだし、汗だくになって右手一本で原稿を仕上げる。NHKドラマ「ゲゲゲの女房」でも描かれた水木しげるさんの姿だ。一方の腕を戦争で失った苦難を努力で乗り越えるさまに、心動かされた人も多いはず▲少し前なら至る所に「水木さん」がいた。従軍して傷つき、終戦で新たな戦いが始まった人たち。東京・九段下に国が設けた戦傷病者史料館で、そんな一人の生きざまに触れた。岩国市本郷町出身の藤谷民男さんだ▲水木さんと同じく左腕を南方で奪われた。選んだのは古里での小学校教員の道。命拾いした恩返しの意味もあったのだろう。望んで山間部の小規模校で教えた。背広の片袖を揺らし、子どもたちの笑顔に囲まれる写真が胸に迫る▲朴訥(ぼくとつ)な語り口の証言映像も見た。不便でも義手を着けなかったのは、振り回して教え子にけがをさせないためだと。凄惨(せいさん)な体験はあえて語らずとも、戦争が何をもたらすか十分伝わっていたに違いない▲終戦の日のきのう、「記憶を風化させるな」との呼び掛けが相次いだ。資料を託した藤谷さんも3年前に世を去っている。身をもって戦争を知る人たちの物語を、今からでも掘り起こせないものか。

(2012年8月16日朝刊掲載)

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