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社説・コラム

『潮流』 宮地文雄さんの「戦後」

■論説副主幹 佐田尾信作

 中国残留孤児・婦人の帰国支援や「広島県満州開拓史」の編さんに半生をささげた宮地文雄さんが、93歳で亡くなった。中国東北部の取材に同行してもらった20年余り前、ある農村で傍らの馬に飛び乗る脚力に驚いた。もう70代の初めだったが「昔は競馬の騎手になりたくてね」。巧みに手綱を取った姿を思い出す。

 安芸高田市で自動車修理販売業を営み、80歳を過ぎても車検代行のため自分で車を走らせていた。温顔の人だったが、家業の傍らの無私の行動は若き日の深い悲しみに由来していた。

 戦時下、吉林省徳恵県に入植した高田開拓団の一員。「軍隊に行かずに済む」。そう思いきや関東軍守備隊に現地召集され、敗戦後、開拓村に戻ると妻子は集団自決によって変わり果てた姿で見つかった。

 「(わが子の)泥だらけのチャンチャンコを、泥だらけの顔に押し当てて抱きしめる…」。79年に先輩記者河田茂さん(82)が証言を得て紙上に再現した悲惨な光景。反対した妻を説得してまでなぜこの地へ、と悔いた宮地さんの「戦後」の始まりだった。

 かつて自らの戦争体験に根ざす慚愧(ざんき)の念を捨てず、「不戦」の2文字を生き方にする人たちが少なからずいた。思想信条を問わず政治家にも経済人にも。現在の日中関係を見るにつけ、そんな時代は過去のものかと思えてならない。

 脳卒中で言語障害になった宮地さんの6年前の手紙を読み返す。当時、残留孤児たちが国を訴えた損害賠償請求裁判にペンの力を貸してほしい、という文面。永住帰国を支援した同郷の2人の孤児が証言台に立ったことも書き添えていた。

 うち1人の女性の半生を記録したモノクロの写真集は年初に仕上がり、宮地さんの目にも映ったことだろう。彼岸では異郷に倒れた家族や同胞を訪ねて旅を始めているのかもしれない。

(2012年9月8日朝刊掲載)

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