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社説・コラム

『言』 フクシマの今 声なき声すくい取らねば

◆広島大大学院生 嘉陽礼文さん

 「原発の再稼働」だの「エネルギー・環境戦略」だのと大文字の議論がかまびすしい。一方で被曝(ひばく)地福島からの声は埋もれがちだ。先月まで4カ月間、単身で現地を歩いた広島大大学院生の嘉陽礼文さん(34)に実情を聞いた。(聞き手は論説委員・石丸賢、撮影・天畠智則)

  ―福島ではアパート住まいだったのですか。
 レンタカーで原発周辺の浪江町や川俣町などに足を延ばすとき以外、福島市内の公園や駅前で野宿同然でした。時々サウナでさっぱりするくらい。貯金を崩しながらの自腹なので。

  ―専攻テーマでもないのに、そうまでしてなぜ福島へ。
 目的は二つ。一つは低線量被曝を裏付ける土砂などを今のうちに集めとかなきゃと思ったんです。広島は原爆投下から約1カ月後、枕崎台風に見舞われた。放射性物質が押し流されて住環境はよくなった半面、大切な試料が散逸してしまった苦い教訓を忘れてはいけません。

    ◇

  ―試料集めは誰のために。
 低線量の被曝は20年後、30年後でないと健康被害がはっきりしません。もし被害者が現れたとき、訴訟にはわずかな物証も欠かせないと思ったんです。

  ―子どもらが心配だと。
 「あの時なぜ疎開させてくれなかったのか」と将来、家族を恨み、社会を憎むことがないとも限らない。矢も盾もたまらず、自分からまず動こうと。広島の被爆瓦を海外に贈る運動で覚えた科学的な収集や記録のノウハウも生かせますから。

  ―その運動も一人で取りかかったんでしたね。
 はい。広島に来て、川底から遺骨とともに被爆瓦が見つかるという話を聞き、たまらなかった。罪もない市民がなぜ大量に虐殺されねばならなかったのかと。米国を憎むことすらできない死没者の無念を思い、せめて弔いの心を向けてもらう橋渡しにと瓦を届け始めたんです。

 ―声なき声、ですか。福島で私が出会った人々も胸に怒りを押し込めている感じでした。
 福島に行った、もう一つの理由がそれと重なります。被曝の危険に日々さらされながら、どうして避難しないのだろうかと不思議で。とりわけ影響が気遣われる子育て家庭に胸の内を聞いてみたかったんです。

    ◇

  ―一口に避難といっても転居や転職は難しい。家族持ちなら、二の足を踏むはずです。
 その通りでした。転職や転居の結果は自己責任とされるわけで、自主避難地域の方々は苦しい選択を迫られています。一時避難で済むのか、収束が見通せないから始末が悪い。「国が強制避難にしてくれていれば…」という声もありました。

 ―公表される環境放射線量の定点観測値は年間被曝線量1ミリシーベルト以下の基準をクリアしているようですね。
 観測点の多くは除染した所だから数値が低い。福島大から携帯用の測定装置を借りて歩いたんですが、観測点から少し離れると数値がぐんと上がる。地元では多くの人がからくりを見抜いています。福島市中心部の小学校の通学路では、地上30センチで毎時20マイクロシーベルトを超す高線量の地点がまだありました。

 ―子育て中の家族はきっと心中穏やかじゃないでしょう。
 インタビューした30家族ほどの9割以上は、食べ物の産地表示を見て「福島県産」は大人用に回すか、まず選ばない。子どもの献立には県外産のものを使っているそうです。

 ―内部被曝のもとはなるべく遠ざけたい、と。
 ところが、自家菜園で丹精込めた野菜を孫に食べさせたいと祖父母が持ち込む。口論が絶えないとこぼす親が目立ちます。福島大の学生仲間からは、原発を受け入れた祖父母と口げんかした話も聞きました。

  ―はけ口がないんですね。
 ある若い母親は「地元の人と恋愛しなさいよ」と小学生の娘に言うそうです。よその人だと偏見で破談になるかもしれないから、と。広島の方なら胸の内が痛いほど分かるはずです。

 「あなたは一人じゃない」「絆」といったメッセージが今も福島には残っている。現実には震災がれきが受け入れられず、脱原発も遅々として進まない。矛盾だらけ。やり場のない鬱憤(うっぷん)の行方が気掛かりです。

かよう・れぶん
 沖縄県生まれ。自動車メーカーで働きながら2010年、広島大法学部2部を卒業。同大大学院修士課程で死者の人権をテーマに研究する傍ら、広島市内の川から集めた被爆瓦を海外の大学に贈った。今月から博士課程に進む。現在、漫画「カバチタレ!」原作者の営む呉市の海事法務事務所に勤めている。広島市西区在住。

(2012年10月10日朝刊掲載)

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