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社説・コラム

『論』 「震災遺構」の保存 被爆地も思い伝えよう

■論説委員 岩崎誠

 宮城県沿岸部の津波被災地に先月末、半年ぶりに足を運んだ。目を覆いたくなる光景はかなり消え、落ち着きを取り戻しつつあるように見えた。遅まきながらも復興が進んでいるのは確かだろう。

 同時に、こんな議論があちこちで起きているようだ。3・11の爪痕を刻む建物や風景などを「震災遺構」として保存すべきかどうか―。

 その手掛かりとなるリストがある。東北大の教員や防災の専門家らでつくる研究会が9月、宮城県内で46カ所の「残すべき遺構」を提言した。大震災では過去の津波の教訓が生かされなかった。今度こそ「現物」を積極的に保存し、脅威を伝えるべきだとの指摘はうなずける。

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 現状はどうなのか。リストを手に訪ね歩いた。大震災の象徴として既に国内外に知られるものも含まれている。

 壊滅した街で骨組みだけを残す南三陸町の防災対策庁舎は、職員ら42人が亡くなった悲劇の舞台。県外ナンバーの車でひっきりなしに訪れる人たちが献花台に手を合わせる。地元の「語り部」も証言活動の場としていた。

 気仙沼市では大型巻き網漁船・第18共徳丸が海岸から600メートルも内陸に流されたまま。仮設商店街で手にした土産物に写真が刷り込まれていた。観光地扱いともいえる。

 女川町では港の交番など3棟が横倒しの状態。災害に強いはずのコンクリート建物が基礎ごと倒壊した世界でも類のないケースだそうだ。

 被災地の外から見れば、当然残したいと思う。だが、こうした「名所」ですら保存するかどうか揺れている。

 遺構を残せば記憶の風化を食い止め、全国から人も呼べる。そんな率直な意見も現地で聞いた。一方、多くの人にとって見るだけで心が沈む場所なのは間違いない。物珍しそうにカメラを手にする観光客に眉をひそめる人もいた。

 市町の多くはモニュメント化を模索しつつ、撤去を望む住民との間で板挟みという。

 ここは地元の判断だけに委ねてもいいものか。南海トラフ巨大地震の発生も懸念されている。大津波の記憶をどう共有するかは、日本全体の課題でもあるはずだ。

 まず国として拙速に解体の結論を出さないよう呼び掛けられないか。住民の思いに配慮しながら、被災地全体としてどれを残し、どう活用すべきか幅広い議論が必要だ。

 自治体が二の足を踏むのには保存や維持の財源が乏しい現状もある。困って募金を始めたところもある。後押しする仕組みは欠かせない。「流用」が批判される復興予算はこういうことに使うべきだ。

 災害遺構を残した実例も参考にできよう。長崎県南島原市では20年前、普賢岳噴火で土石流に押しつぶされた11棟の民家が5億円近くかけてそっくり保存された。道の駅も隣にでき、今や観光と防災教育の拠点として地域になくてはならない存在となった。

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 被爆地も無関心ではいられない。震災遺構をめぐる議論で、必ず引き合いに出されるのが世界文化遺産となった原爆ドームだからである。

 つらい記憶を呼び覚ますものは一刻も早く取り壊せ。そんな市民の声もある中で、全国から保存の要望が相次ぎ寄せられた。そして広島市が永久保存を決断し、核兵器の脅威を世界に訴え続けている。

 そのことが被災地の「保存派」の人たちの心の支えとなっているのだろう。

 半面、多くの被爆建造物が姿を消している。今思えば「残しておけば」と悔やまれるものも少なくない。こうした歴史について被災地の住民と語り合い、思いを共有することはできないだろうか。

(2012年11月8日朝刊掲載)

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