『言』 尖閣諸島と日台関係 漁業交渉を対話の糸口に
12年11月14日
◆日本女子大講師 西村一之
日本政府による沖縄県・尖閣諸島の国有化は、台湾との関係にも悪影響を及ぼしている。9月には台湾漁船団が尖閣近海を「伝統的な漁場」とみなし、一時日本の領海に侵入。馬英九政権は漁業権交渉の再開に前向きのようだが、主権にこだわりも見せる。台湾の漁村を約20年調査する文化人類学者の西村一之・日本女子大講師(42)は「日台漁民には交流の歴史があり、漁業権交渉が対話の糸口になる」とみる。(聞き手は論説副主幹・佐田尾信作、写真・今田豊)
―台湾で漁村を調査するきっかけと目的は何でしたか。
学部までは東北農村の人間関係が研究テーマでした。岩手県北上地方で調査していましたが、文化人類学は海外にも目が向く学問なので、台湾はどうかという話に。蒋介石・国民党政権の独裁に始まって38年に及んだ戒厳令は1987年に解除され、台湾研究がしやすくなりました。しかも漁村や漁業は未知の分野でした。
―植民地時代には日本漁民が台湾で移民村をつくった。瀬戸内海からも出漁しましたね。
台湾東海岸のカジキ突き棒漁は日本の漁民が伝え、一緒に尖閣近海まで出漁したと聞きました。そのため戦後の一時期、台湾漁民がこの近海に出漁すると、帰郷した沖縄の漁民と遭遇し、物資を交換したり遭難時に助け合ったりしたそうです。地上戦の戦場になった沖縄では帰った漁民も困窮していたはず。そこは「やわらかい境界」であり、向き合う者同士、ともに利用できる海でした。
―台湾漁民に尖閣の漁場を教えたのは沖縄漁民なんですね。
漁の師匠が日本人だったという老漁民は多い。彼らは魚釣島を「ムジンド=無人島」と懐かしみ、日本語で仕事歌を歌う。「行けるものなら、若い者を連れてもう一度行きたい」とも。戒厳令下では出漁は表向き許されなかったのです。
―台湾政府の尖閣への立場を日本人はあまり知らない。中国とは主張が異なるのですか。
72年の沖縄復帰前に、国民党政権は「琉球群島の日本返還は受け入れられない」と抗議しています。琉球に尖閣は含まれる。第2次大戦の戦勝国の立場からすれば、日米両国だけで帰属を決めるのはおかしい、という主張だったのでしょう。
―となると台湾は今も尖閣の主権を主張しているのですか。
原則はその通りで、現実には「棚上げ」です。日本でもよく知られている元総統の李登輝氏が日本領だと発言していますが、これは少数意見です。
今の馬英九政権は尖閣近海を「伝統的な漁場」とみなし、3年前から途絶えている漁業権交渉の席に着くよう日本に求めています。重なり合う両国の排他的経済水域(EEZ)の線引きなどが凍結されていますから、早く解決したいのです。
―台湾の漁船団と巡視船が尖閣周辺で日本の領海に一時侵入しましたが、この背景は。
漁民のやむにやまれぬ行動でしょう。自治体からの補助金は見通しがたたず、中国本土で成功した地元出身創業者がいる企業が活動資金をポンと寄付したらしい。油代はどうするのか、手ぶらで帰るのか、実情は議論百出でした。国内のデモも実際には少数派でしたね。
―馬総統には対日強硬論者の印象があります。漁場だけでなく主権にもこだわるのでは。
海外の中国人社会では尖閣を固有の領土と主張する「保釣運動」が根強く、現政権は弱腰だという批判を避けるポーズかもしれません。むしろ馬総統は自らが要になって日中台の対話の門戸を開こうと、「中国とは話ができる」というサインを送っているはずです。それを日本がちゃんと受け止めていないのではないでしょうか。「台湾は親日的だ」という甘えもある。
―調査でじかに聞いた台湾漁民の声はどうなのですか。
「(国境の漁業は)昔のような『共同』がいいよ」という声があります。台湾は日本に近い政治制度ですから、馬政権も民意を大きく違えることはないと思いますね。
里山や河川敷などの再生にローカル・コモンズ(地域共同管理空間)の考えがあります。日中台には海洋資源の共同開発という可能性もあります。東シナ海という境界で、この発想を生かす道を探るべきでしょう。
にしむら・かずゆき
1970年札幌市生まれ。筑波大大学院歴史・人類学研究科単位取得満期退学。日本女子大助手、助教を経て4月から現職。著書に「台湾における<植民地>経験」(共著)など。訳書に「台湾外省人の現在」(共訳)など。台湾友好ひろしまネットワークに招かれ、先月、広島市内で講演した。
(2012年11月14日朝刊掲載)
日本政府による沖縄県・尖閣諸島の国有化は、台湾との関係にも悪影響を及ぼしている。9月には台湾漁船団が尖閣近海を「伝統的な漁場」とみなし、一時日本の領海に侵入。馬英九政権は漁業権交渉の再開に前向きのようだが、主権にこだわりも見せる。台湾の漁村を約20年調査する文化人類学者の西村一之・日本女子大講師(42)は「日台漁民には交流の歴史があり、漁業権交渉が対話の糸口になる」とみる。(聞き手は論説副主幹・佐田尾信作、写真・今田豊)
―台湾で漁村を調査するきっかけと目的は何でしたか。
学部までは東北農村の人間関係が研究テーマでした。岩手県北上地方で調査していましたが、文化人類学は海外にも目が向く学問なので、台湾はどうかという話に。蒋介石・国民党政権の独裁に始まって38年に及んだ戒厳令は1987年に解除され、台湾研究がしやすくなりました。しかも漁村や漁業は未知の分野でした。
―植民地時代には日本漁民が台湾で移民村をつくった。瀬戸内海からも出漁しましたね。
台湾東海岸のカジキ突き棒漁は日本の漁民が伝え、一緒に尖閣近海まで出漁したと聞きました。そのため戦後の一時期、台湾漁民がこの近海に出漁すると、帰郷した沖縄の漁民と遭遇し、物資を交換したり遭難時に助け合ったりしたそうです。地上戦の戦場になった沖縄では帰った漁民も困窮していたはず。そこは「やわらかい境界」であり、向き合う者同士、ともに利用できる海でした。
―台湾漁民に尖閣の漁場を教えたのは沖縄漁民なんですね。
漁の師匠が日本人だったという老漁民は多い。彼らは魚釣島を「ムジンド=無人島」と懐かしみ、日本語で仕事歌を歌う。「行けるものなら、若い者を連れてもう一度行きたい」とも。戒厳令下では出漁は表向き許されなかったのです。
―台湾政府の尖閣への立場を日本人はあまり知らない。中国とは主張が異なるのですか。
72年の沖縄復帰前に、国民党政権は「琉球群島の日本返還は受け入れられない」と抗議しています。琉球に尖閣は含まれる。第2次大戦の戦勝国の立場からすれば、日米両国だけで帰属を決めるのはおかしい、という主張だったのでしょう。
―となると台湾は今も尖閣の主権を主張しているのですか。
原則はその通りで、現実には「棚上げ」です。日本でもよく知られている元総統の李登輝氏が日本領だと発言していますが、これは少数意見です。
今の馬英九政権は尖閣近海を「伝統的な漁場」とみなし、3年前から途絶えている漁業権交渉の席に着くよう日本に求めています。重なり合う両国の排他的経済水域(EEZ)の線引きなどが凍結されていますから、早く解決したいのです。
―台湾の漁船団と巡視船が尖閣周辺で日本の領海に一時侵入しましたが、この背景は。
漁民のやむにやまれぬ行動でしょう。自治体からの補助金は見通しがたたず、中国本土で成功した地元出身創業者がいる企業が活動資金をポンと寄付したらしい。油代はどうするのか、手ぶらで帰るのか、実情は議論百出でした。国内のデモも実際には少数派でしたね。
―馬総統には対日強硬論者の印象があります。漁場だけでなく主権にもこだわるのでは。
海外の中国人社会では尖閣を固有の領土と主張する「保釣運動」が根強く、現政権は弱腰だという批判を避けるポーズかもしれません。むしろ馬総統は自らが要になって日中台の対話の門戸を開こうと、「中国とは話ができる」というサインを送っているはずです。それを日本がちゃんと受け止めていないのではないでしょうか。「台湾は親日的だ」という甘えもある。
―調査でじかに聞いた台湾漁民の声はどうなのですか。
「(国境の漁業は)昔のような『共同』がいいよ」という声があります。台湾は日本に近い政治制度ですから、馬政権も民意を大きく違えることはないと思いますね。
里山や河川敷などの再生にローカル・コモンズ(地域共同管理空間)の考えがあります。日中台には海洋資源の共同開発という可能性もあります。東シナ海という境界で、この発想を生かす道を探るべきでしょう。
にしむら・かずゆき
1970年札幌市生まれ。筑波大大学院歴史・人類学研究科単位取得満期退学。日本女子大助手、助教を経て4月から現職。著書に「台湾における<植民地>経験」(共著)など。訳書に「台湾外省人の現在」(共訳)など。台湾友好ひろしまネットワークに招かれ、先月、広島市内で講演した。
(2012年11月14日朝刊掲載)