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社説・コラム

『私の師』 広島女学院大学長 長尾ひろみさん

国際派の女性育む原点

 2009年、神戸女学院大(兵庫県西宮市)で教えていた私に突然、広島女学院大(広島市東区)の教授会から「学長に推薦したい」との連絡が入った。

 住んでいた宝塚市には孫もいて養女も育てていた。法廷通訳の依頼も来ていた。どうしよう。3日間考えた。3日目の夜、広島女学院大(当時は英和女学校)の初代校長ナニ・ゲーンス先生と、40年前まで学長だった広瀬ハマコ先生が夢に出てきた。「帰ってきんさい」。行こう、と決めた。

 広瀬先生は、広島女学院中高大(当時は広島女学校)の卒業生として初めて院長・学長に就任。1951年から70年まで務めた。そして、学長退任からちょうど40年後の2010年春、広島女学院の卒業生第2号として、私が学長に就任した。

 広瀬先生との出会いは50年前。私が小学4~6年を米国で過ごし、62年に帰国した時、先生が広島女学院中への仮入学を認めてくれた。同中として初の帰国子女受け入れだった。丸っこくて、大学時代、キャンパスをひょこひょこ歩いていた先生の姿を思い出す。「頑張りんさいよ」と学生に会うたびに声を掛けていた…。

 中学から大学まで10年間、先生の話を聞いて過ごし、私には先生が目指した女学院の在り方が染みついている。

 学長になってキャンパスに立った時、私の学生の頃と非常に変わっていて、がくぜんとした。学校は男性主体の組織になり、男性目線の経営になっていた。もちろん女性の管理職はいない。かつて、米国人の宣教師がキャンパスを歩いていて、英語であいさつするのが当たり前だった姿もなくなっていた。

 「ここで何をしようか」と考えた時、頭に浮かんだのは、やはり広瀬先生だった。

 先生は、広島県仙養村(現神石高原町)で小学校まで過ごし、中学で広島女学院に来た。22歳で渡米。コロンビア大で博士号を取得した。女学院の学長時代は、キリスト教に基づいた精神的に強い女性を育て、国際的な総合教育をしていた。実際、多くの学生を海外に留学させていた。

 私は、ゲーンス、広瀬両先生の土台の上に女性の視点で学校をつくり直そうと考えた。品格ある、知的で国際的な女性を育てる大学に戻さなければ、と。

 その一つが、本年度新設した国際教養学部だ。学部にはGSEという全ての授業を英語で行うコースもある。来年度の後期には、このコースの全学生を米国に留学させる予定だ。広島にある大学として、さらにグローバル化を進める策も検討中である。

 広瀬先生が初代院長を務めた聖和大(西宮市、現関西学院大)では、私も5年間教べんを執った。先生の後を追い掛けているような摂理を感じている。(聞き手は二井理江)

ながお・ひろみ
 1949年、岡山に生まれ、間もなく広島市南区に転居。父の仕事の関係で京都市にも住み、小学4~6年は米国テキサス州ヒューストン。62年に帰国後、広島女学院中高を経て72年に広島女学院大卒。89年神戸女学院大修士課程修了、2010年に大阪外国語大で博士号(言語文化学)取得。聖和大助教授、神戸女学院大教授を経て同年4月から現職。1984年6月から2010年5月まで大阪地裁で法廷通訳人を務めた。11年2月から文部科学省の中央教育審議会委員。広島市中区在住。63歳。

(2012年11月26日朝刊掲載)

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