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社説・コラム

『言』 ミャンマー支援 住民の力引き出す姿勢で

◆国際協力NGO理事・束村康文さん

 民主化のピッチを上げるミャンマーに向け、日本企業の投資熱が高まっている。現地住民にはどんなニーズがあるのか。市民レベルの交流や協力に出番は―。同国の地域開発に長年携わり、島根県邑南町に先月移り住んだ非政府組織(NGO)ブリッジ・エーシア・ジャパン(BAJ)理事の束村康文さん(51)に聞いた。(聞き手は論説委員・石丸賢、撮影・宮原滋)

 ―ミャンマーでの滞在歴は。
 東京に本部を置くBAJの駐在員として最初に派遣されたのが1995年春。アウン・サン・スー・チーさんは軍事政権に自宅軟禁されていました。以来、国境付近の難民支援や乾燥地帯の集落への給水プロジェクトなどで計3回、通算で8年ほど家族と現地で過ごしました。

 ―軍政批判の「最強硬派」だった米国の現職大統領までが足を踏み入れましたね。
 このところの変化には本当に驚かされます。民主化の歯車をここで逆回転させてはなるまいと表に出る活動家もいますが、揺り戻しがあるのではと半信半疑の人もいるようです。

 ―転機は何だったんですか。
 憲法成立や総選挙、大統領の選出はもちろんですが、2008年、サイクロンに見舞われたことも無縁ではないように思います。死者・行方不明者だけで13万人を超え、被害総額は4千億円以上と見積もられている甚大な災害でした。

 ―被災がなぜ、節目に。
 復旧・復興の支援と相まって国際社会の注目を浴びる中、軍政も民主化の道を後戻りさせるのが難しくなったはず。相当の圧力になったと思います。

 ―現地は、かなりの日本びいきだそうですね。
 親日感情が人々の間にとても強い。軍政も例外ではありません。私が95年に関わった難民支援の仕事は国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)との共同事業だったのですが、国連側が軍政に持ち掛けると「日本の組織なら」と条件付きで受け入れられたと聞きました。

 ―どうしてでしょう。
 英国からの独立戦争に当初肩入れしたということもありますし、戦後も政府間で良好な関係でした。確かな品質の日本製品や技術力には信頼が厚い。控えめで、いさかいを嫌う国民性も相通じるようです。95年に放映されたテレビドラマ「おしん」も大人気で、貧しさや不遇に立ち向かう日本人の姿に勇気づけられた人が多かった。

 ―進出する日本企業にとっては渡りに船、ですね。
 ただ、ミャンマー側の受け入れ態勢はこれからで、とりわけ人材育成に絡む教育制度は課題です。大学は長い間、閉鎖されていましたし、小・中学校に相当する基礎教育もゆきわたっていない。雇用の場が開かれても、技術を自分のものにし、応用して自立の力にしていける素地が整っていません。

 ―長い目で、それも現地本位の思考が欠かせない、と。
 そうです。指示待ちで働かされるのではなく、生きがいとか喜びを持った働き手こそが社会づくりの担い手になれる。

 ―その一翼を担っているのがNGOなのでは。
 確かに。軍政に権限が集中していた中、時にはうまく立ち回りながらも「すべては地域住民のために」との理念だけは見失わず、貫いてきたつもりです。その一方で限界にも気付かされたんです。結局、地域の利益を一番知っているのは住民です。住民の、住民によるNGOでなければ、と。

 ―ミャンマーの人たちが主役のNGOはあるんですか。
 ここ数年で出てきました。邑南町の住民グループ「瑞穂アジア塾」が昨年招いた障害者のミャンマー人女性は1カ月ほど民泊をしながら福祉現場を見て回り、障害者の生活自立のためのNGOを最大の都市ヤンゴンで旗揚げしました。

 ―継続が望まれますね。
 来年また、彼女の仲間が邑南町にやってきます。今度は約2カ月間に福祉施設のほか、産業技術科を持つ高校や義肢装具のメーカーにも足を延ばす予定です。こうした人材育成の地道な支援や交流こそが住民主体のNGOを育て、民主的な風土をミャンマーに根付かせる上で大切だと思っています。

つかむら・やすふみ
 愛媛県伊予市生まれ。愛媛大法文学部卒業、東京都立大大学院博士課程修了(地理学専攻)。日本国際ボランティアセンターを経て93年、BAJに入り、ミャンマーやスリランカで駐在国代表を務めた。東洋大非常勤講師を経て妻由里さん(48)の古里、島根県邑南町に移住。瑞穂アジア塾では副代表。

(2012年11月28日朝刊掲載)

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