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社説・コラム

今を読む 立命館大准教授 福間良明 「騙される」という悪徳

「騙される」という悪徳

「正論」にこそ熟慮が必要

 戦前の映画監督伊丹万作は「戦争責任者の問題」(1946年)という一文の中で「騙(だま)されるといふこと自体が既に一つの悪である」と述べている。

 「戦時中、国民は騙されたのだ」とする見方は、終戦直後から現在に至るまで、しばしば見られるものである。だが、伊丹はそれに異議を唱え、「あんなにも雑作(ぞうさ)なく騙される程批判力を失ひ、思考力を失ひ、信念を失ひ(中略)自己の一切を委ねるやうに成つてしまつて居た国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任等」を問いただした。

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 こうした議論は伊丹に限るものでもない。特攻隊員の心情を描いた映画「雲ながるる果てに」(53年)を監督した家城巳代治は「映画芸術家の反省と自己革新に就て」(46年)において、「だまされたとは何といふ恥づかしい言葉であらう。若し私がだまされたとするならば、私はだました人間に何等の憎悪もない。唯々だまされた自分への嫌悪があるだけである。その愚かさ、その軽薄さ、何たる醜態であろう」と語っていた。

 伊丹と家城のいずれも、自己を「騙された」との理由で免責することを拒み、戦時のありように疑問を抱かなかった自らの責任を思考しようとしている点で共通している。

 先日の総選挙の動きと結末を眺めながら時折思い起こしたのは、これら66年前の映画人の議論であった。

 3年前の衆院選では、民主党が政権交代を掲げて大勝した。基地問題、行政機構のセクショナリズム、格差是正―これらの政治課題が解決されるであろうという国民的な願望が、そこにはあった。結果的には、民主党政権下で十分に解決されるには至らず、政治的な行き詰まりもしばしば見られた。今回の総選挙結果はそれに対する国民の批判・反感のあらわれではあろう。

 だが、民主党政権の責任を問う声が横溢(おういつ)していた一方で、国民の「責任」を考える議論はあまり見られなかったように思える。暗に、国民は「騙された」ということで済まされているのではないか。

 前回総選挙における民主党支持層は「変革」「革新」を志向する点で一致していたものの、消費税や環太平洋連携協定(TPP)をめぐる判断など、「変革」の内実には幾重の差異や対立を内包していた。「変革願望」の気分ばかりが前景化し、具体的な方向性や実行プロセスについては総じて、あまり熟考されなかったのではないだろうか。

 「それを考えるのが政治家の役目である」という見方もあろう。だが、それは思慮を人任せにする「文化的無気力、無自覚、無反省、無責任」とは言えまいか。

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 政治的・経済的な閉塞(へいそく)状況が続くなか、「革新」「維新」を求めるむきは少なくない。そして、そこではしばしば、特定の立場に立った強硬な「正論」が導かれやすい。

 だが、明快な「正論」が生まれやすい議題こそ、じつは粘り強い思考や交渉が必要とされるものである。領土や原発、格差社会の問題に限らず、現代社会は、悶々(もんもん)と悩み、自問と討議を重ね、何に固執し何に妥協するのかについて交渉を積むしかない局面に満ちている。だとすれば、「正論」「変革」に高揚することは、ときに、熟慮する苦悶(くもん)からの「逃避」を意味するのではないか。

 3年前に民主党の大勝に陶酔し、その3年後になって失望を抱いたのも、政治や政治家の問題だけではないだろう。「熟慮する苦悶」から逃避し、「あんなにも雑作なく騙される程批判力を失ひ、思考力を失ひ、信念を失」った「文化的無気力」に起因するものがなかったと言い切れるものかどうか。

 伊丹万作は同じ文章の中で「『騙されてゐた』と言つて平気でゐられる国民なら、恐らく今後も何度でも騙されるだらう。いや、現在でも既に別の嘘(うそ)によつて騙され始めてゐるに違ひないのである」と記している。これが、自民党による「政権奪還」後の状況を暗示するものとならないことを願っているが、果たしてどうなるのであろう。

立命館大准教授 福間良明
 69年熊本市生まれ。京都大大学院人間・環境学研究科博士課程修了。08年から現職。専攻は歴史社会学、メディア史。著書に「『戦争体験』の戦後史」など。編著書に「複数の『ヒロシマ』」など。

(2012年12月25日朝刊掲載)

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