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社説・コラム

社説 展望2013年 成長の内実が問われる

 区切りの朝を迎えた。多くの人にとって、期待と不安がない交ぜになった年明けではなかろうか。

 バブルがはじけて以来、「失われた20年」と呼ばれるほどに日本経済の停滞が続く。デフレ脱却の芽を見いだせるかどうかは、国民の暮らしも、この国の行方も、大きく左右するだろう。

 安倍晋三首相が率いる新政権への期待はそこにある。とはいえ、弱った経済を再生し、同時に財政も再建しようとすれば、相当の痛みを伴うに違いない。どう分かち合えばいいのか。

 これ以上、弱者の切り捨てとなってはなるまい。手を差し伸べ、あすへの希望をいかに共有していくか。我慢の時代だからこそ、共助の精神が輝きを増す。それは東日本大震災が気付かせてくれたことでもあった。

「諦めた国に…」

 安倍首相は昨年末の就任会見をこう締めくくった。「成長を諦めた国、成長していこうという精神を失った国に、未来はない」

 すごみを感じさせる言葉から決意は伝わる。ただ本当に成長できるのか。できるとしても、どんな成長を目指すのか。強い言い回しはかえって懸念も抱かせる。

 人口減と高齢化が止まらない成熟社会である。国内総生産(GDP)という物差しだけで判断したくはない。もはや、モノの豊かさばかりでもなかろう。私たちはまず、目指すべき成長の内実を明確にしなければならない。

 今やこの国の借金は1千兆円近くと桁外れに膨らんでいる。さらに借金に頼って景気対策を進めるのは、それが建設国債であれ赤字国債であれ、将来につけ回しする点では変わらない。

 震災直後、単に従前の姿に戻す復旧ではなく、新しい国のかたちを創り出すと被災地は誓った。そうした復興を後押しする公共事業であれば、資金を惜しんではならないのだろう。

 ただ被災地以外ではどうか。急を要する防災事業は確かにあろう。とはいえ本当に次世代に残すべきインフラなのか、既存のものでは対応できないのか、丹念な見極めが欠かせない。

原発の再稼働は

 成長を期すために旧態依然の手法に頼る。その危なっかしさは原発政策からもうかがえる。

 福島第1原発事故の総括は十分とはいえない。廃炉の行方もまだ見通せない。かつて自民党政権が原発の安全神話を追認してきた責任も、昔話だとは済まされまい。

 安倍首相が本紙インタビューで上関原発(山口県)建設について「凍結という地元の考えを尊重する」と明言したのは、国民の安心・安全を最優先に考えてのことであろう。

 ところが担当閣僚は昨年末、原発の再稼働や新増設へ向けてすぐにも走りだす姿勢を見せた。これでは国民を惑わせるだけだ。

 一方、待ったなしの社会保障改革で気になるのは、昨年の衆院選で自民党が政権公約に「自立や自助が基本」と掲げたことである。

 経済協力開発機構(OECD)によると、日本は子どもや一人親世帯の貧困率が先進国の中でも高い。親から子へ貧困が「世襲」されるケースも増えている。貧富の格差が固定化すれば、再チャレンジを図る機会も限られよう。

 雇用の確保、賃金の上昇に向けた総合的な対策が喫緊の課題といえる。個人消費で成長を牽引(けんいん)しようとするならば、分厚い中間層を取り戻すことが不可欠だからだ。

 地方からすれば、東京との格差が開くばかり。疲弊した地域に人口減と高齢化、すなわち生産力の低下が追い打ちをかける。成長しようにも足場が細っている。

無私の勧めこそ

 ならば、地域のことは地域が決める。分権を通じて、地域のあすを確かなものにしたい。国は地方の自立、自助を支える手だてを講じてもらいたい。

 むろん私たちの心構えも問われよう。この面で紹介している磯田道史さんの「無私」の勧めが、示唆に富む。

 我欲を捨て、地域のために行動する。実行は難しいが、できることから始めよう。まずは自らの地域を見つめ直すとともに、隣人の痛みを思いやる共助の仕組みを広げていくことではないか。

 地域から国を動かしていく。成熟と格差時代の成長の姿を、そこに見いだしたい。

(2013年1月1日朝刊掲載)

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