×

社説・コラム

今を読む ベアテ・ゴードンさんが遺したもの

ユニタール特別顧問 ナスリーン・アジミ
 
憲法の精神 毅然と擁護を

 私の友人であり、人生の師でもあったベアテ・シロタ・ゴードンさん。1946年2月、日本の新憲法草案の女性条項を書き、ほぼ40年にわたって米国人に日本やアジアの舞台芸術を紹介し続けた彼女は昨年末、ニューヨークで亡くなった。89歳だった。

 ベアテさんとは広島が縁で出会った。2002年に同僚と私は広島市で国際会議を開いた。テーマは日本、韓国、ベトナム、カンボジア、東ティモール、アフガニスタンの戦争後についての比較研究。会議内容をまとめた紀要の前文を誰に書いてもらうか、ふさわしい人を探していた。

 当時はタリバン政権が崩壊し、米主導によるアフガン占領が始まって1年後のタイミングであった。新しいアフガン憲法の起草は喫緊の課題であり、日本の戦後復興と平和憲法が、にわかに国際社会の大きな関心事となった。そのことがおのずと私たちの目をベアテさんに向かわせた。

 歴史学者で「敗北を抱きしめて」の著者ジョン・ダワー氏は、本の中で若いころのベアテさんについて「情熱があり、理想に燃え、際立った国際人である」と述べている。随分後に彼女と知り合った私も同じ印象を抱いた。

    ◇

 快く序文を書いてくれてから数カ月後、彼女は広島を訪れる。国連訓練調査研究所(ユニタール)主催の会議で「紛争後の再建と女性・憲法」と題して講演した。

 優しくてユーモアに満ちたおばあちゃん。そんな印象を与えるベアテさんの人生とその仕事には、人類にとっての普遍的な価値が宿っている。彼女が取り組んできたのは、平和を守り、人権や男女平等を確立し、芸術の大切さを暮らしと社会に正当に位置づけることであった。

 文化に対する信念はとてつもなく強い。彼女は戦争を生きた世代であり、人々が互いの文化を理解し合わない限り、本当の平和は築けないと心から信じていた。

 オーストリア・ウィーン生まれのベアテさんは、国際的ピアニストの父レオ・シロタ氏が東京音楽学校(現東京芸術大)教授に招かれた1929年に母とともに来日。父母を残し39年に米国留学するまで日本で過ごした。成長過程で直接日本に触れた彼女は、日本女性に基本的な権利が与えられていないことを観察していた。そのことが彼女のその後の人生に影響を与えた。

 45年末に連合国軍総司令部(GHQ)付の通訳・翻訳家として再来日したベアテさんは、22歳で憲法起草作業に従事した。東京の図書館を巡り、米国の憲法や独立宣言をはじめ、フランス、スイスなど多くの国の憲法事例を比較。24条(両性の平等)など人権条項を書き上げた。

    ◇

 日本国憲法が占領軍の押し付けだという考えがあるのに対して、彼女はしばしば作家ジェームス三木氏の「歴史の知恵の体現」という言葉を引用している。

 自身の回想録でも「軍国主義を放棄するという条項が、このような破滅的なまでの犠牲に苦しんだ人々の心に触れた」と記す。そして憲法9条をなくすことが日本を「普通の国」にしてしまうとして、その考えに反対していた。

 ベアテさんの訴えは明確である。日本の平和条項は、スイスの永世中立条項とともに二つの国の偉大な「宝」である。にもかかわらず、なぜ日本は平和条項を放棄しようとするのか。他の国々こそが日本の平和憲法を模範としてまねるべきだ。それが彼女の主張であった。

 私がベアテさんと最後に言葉を交わしたのは、昨年の12月10日だった。偶然だが、その日は「世界人権デー」に当たった。それは私たちにとって完璧なまでにふさわしい日のように思えた。

 日本国憲法はいつか修正される時が来るかもしれない。そのような時が訪れたとき、人間の普遍的な権利と平和条項を内包した憲法の精神を日本の人々が毅然(きぜん)と擁護してくれることを期待したい。そのことが、人類の向上のために働いてきたベアテさんの遺(のこ)した功績に応える道ではないだろうか。

ユニタール特別顧問 ナスリーン・アジミ
 59年イラン生まれ。17歳でスイスへ移住。88年ジュネーブのユニタール本部プログラム・コーディネーターに就任。03~09年ユニタール広島事務所長。現在、「ベアテ・シロタ・ゴードンと日本国憲法」について本を執筆中。広島市在住。

(2013年2月9日朝刊掲載)

年別アーカイブ