×

社説・コラム

なぜなに探偵団 3代目寄贈 平和の鐘って?

▽ターゲット記事

 広島市の平和記念式典で1952年から12回使われた3代目の「平和の鐘(かね)」を、西区の小田正人さん(84)が原爆資料館(げんばくしりょうかん)(中区)に寄贈(きぞう)しました。かつて西区中広町にあった光元寺(こうげんじ)の住職(じゅうしょく)だった亡(な)き父から受け継(つ)ぎ、自宅(じたく)で保管(ほかん)していました。(2月11日付朝刊(ちょうかん)22面から)

祈り乗せ 式典で音響かす

 「平和の鐘」は、広島市が毎年8月6日に開いている平和記念式典で鳴らされます。原爆投下時刻(じこく)の午前8時15分、こども代表と原爆犠牲(ぎせい)者の遺族(いぞく)代表が鐘をつき始めます。

 「カーン、カーン」。澄(す)み切った音が響(ひび)く中、参列者は静かに目を閉(と)じ、1分間の黙(もく)とうをささげます。死没(しぼつ)者の冥福(めいふく)を祈(いの)り、平和実現(じつげん)も願います。式典で鐘は、とても重要な役割(やくわり)を果たしています。

    ● ○ ●

 現在の鐘は既(すで)に5代目。市に寄贈され、67年から45年間も使われています。鐘の変遷(へんせん)をたどると、意外な事実が浮(う)かんできます。

 鐘が初めて使われたのは、47年の平和祭でした。翌年(よくねん)も使われた初代の鐘は、その後、盗難(とうなん)に遭(あ)い、行方不明になってしまいました。

 2代目はベル型で、広島の金属(きんぞく)業者たちが市に寄贈、49年の式典で鳴らされました。しかし式典の会場が変更(へんこう)になったことなどもあって、使われなくなりました。ただ、鐘自体は今も、旧広島市民球場跡(あと)の北側(中区)にあり、見ることができます。

 「原爆犠牲者の鎮魂(ちんこん)と平和への願いを込めて焼け跡から集めた金属から作った」。鐘のそばには、そんな説明が書かれています。制作にかかわった人たちの思いがうかがえます。

 50年は、朝鮮(ちょうせん)戦争の影響(えいきょう)で式典が中止になりました。51年の式典では、鐘は鳴らされませんでした。52~66年は、地元の寺から借りた二つの鐘が使われました。

 今回、資料館に寄贈された3代目の鐘は、52~63年の式典で鳴らされました。表面に「世界平和伝声之(でんせいの)鐘」などの文字が刻(きざ)まれています。亡父から引き継いだ小田さんは、原爆できょうだいを失いました。「平和を願って鳴らされた鐘を後世に残してほしい」と思って寄贈を決めました。

 8月6日に法要を営(いとな)む寺が市内には多かったため、市は、式典で使う鐘の確保(かくほ)に苦労していたそうです。

    ● ○ ●

 4代目は、南区元宇品(もとうじな)町にある観音寺(かんのんじ)の鐘です。64~66年に使われました。今は、本堂の軒先(のきさき)につるされ、大切にされています。

 5代目は、鐘造(づく)りの名人と呼ばれ、後に人間国宝(こくほう)となった故香取正彦(かとり・まさひこ)氏が制作しました。刻まれている「平和」の文字は、故吉田茂(よしだ・しげる)元首相の書です。普段(ふだん)は、原爆資料館東館1階に展示されています。

 「世界から戦争や核(かく)兵器がなくなりますように」「奪(うば)われた笑顔を取り戻(もど)せますように」―。今年の夏もさまざまな願いを乗せて、平和の鐘の音が響くことでしょう。(増田咲子(ますだ・さきこ))

≪そもそもキーワード≫

広島原爆
 45年8月6日午前8時15分、米軍が人類史上で初めて原爆を投下。広島は壊滅(かいめつ)し、その年のうちに約14万人が亡くなったとされる。

平和記念式典
 毎年8月6日、原爆犠牲(ぎせい)者の冥福(めいふく)を祈り、平和記念公園(中区)で開かれている。広島市長の平和宣言(せんげん)やこども代表による「平和への誓(ちか)い」がある

(2013年3月3日朝刊掲載)

年別アーカイブ