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社説・コラム

『論』 「核罪」なくすには 廃絶の訴え 磨き直そう

■論説主幹 江種則貴

 「核災」という表現が、すとんと腹に落ちた。

 福島県在住の詩人、若松丈太郎さんの言葉である。同僚がインタビューし、昨日のこの面で紹介した。

 福島第1原発事故をそう呼ぶのは、それが偶発的なアクシデントでは決してなく、人間が核を「誤用」することで起きた「構造的な人災」だと若松さんは説く。

 その言葉から、ことしも先日めぐり来た3・1ビキニデーを連想した。59年前、米国の水爆実験で第五福竜丸が死の灰を浴びたのは、紛れもない核災であろう。

 広島、長崎への原爆投下もそうかもしれない。ただ人類の愚かな行為を告発する思いも込め、より強い意味合いで「核罪」とも呼びたくなる。

 福島以来、しばしば過去の報道のありようが問われてきた。核兵器と原発を別々のものとし、「平和利用」という言葉で被曝(ひばく)の危険性を包み隠したのは、ほかならぬマスコミ自身ではなかったかと。

 この2年間、私たちは謙虚に反省してきたつもりではある。その上で、核の惨禍を知る広島だからこそ、福島の、あるいは原発作業員の不安に思いをはせようと呼び掛けてきた。

 被爆地が蓄積した知見をもってしても、低線量被曝の危険性がよく分からないことに、じくじたる思いを抱えてきた。

 大地が揺れ、海原がせり上がった衝撃的な記憶。その風化が早くも叫ばれ始めたことには身につまされる。ビキニデーや被爆の体験にしても、時にあらがうのは何と難しいことか。

 だが、しかし、と思う。

 誤解を恐れつつ言えば、広島は核の誤用よりも、若松さんが「悪用」と定義づける核兵器のことを真っ先に考えるべきではなかろうか。廃絶を求める訴えにいま一度、磨きをかけるときではないか。

 いくら抗議の声を上げても北朝鮮は核実験をやめようとしないためだ。核兵器廃絶がますます遠のく世界情勢にいら立つからだ。

 軍事利用をなくしてしまえば、欺瞞(ぎまん)だと反感も買う「平和利用」の言葉も使わなくて済む。

 原爆がいかに人道に反するか、被爆者が身をもって訴え続けてきたのは、そこにほかならない。ノルウェーで4、5日、核兵器の非人道性をテーマに初めて開かれた大規模な国際会議に意を強くする。

 ところが、その会議に、いわゆる核保有5大国は参加しなかった。核兵器禁止条約を求める論議をフランスが嫌ったためとされる。米国の欠席理由は「核軍縮・不拡散の取り組みの妨げになる」というから、訳が分からない。

 原発を今後どうするか、それこそ国を挙げて議論すべき時期であろう。ただ一方で、核兵器は廃絶どころか、拡散さえ止められない。被爆地こその訴えは、そちらに集中させた方がいいのではないか。

 再び、しかし…。

 電気代の高騰は困るから原発の再稼働はやむを得ないという今の空気と、核兵器が廃絶できるわけがないという諦め。二つの根っこは同じとも思えてくる。追い求めるべき理想よりも、現実に流されている点において。

 やはり核兵器と原発事故は、人類に突き付けられた同列の命題だととらえるべきなのだろう。

 若松さんも指摘するように事故の当事者責任はあいまいのままだ。一方、原爆を開発し、投下を命じた責任も長らく不問にされてきた。

 双方を「人道への脅威」だと確かに認識することは、その責めを誰が負うかという問い直しの出発点ともなる。

(2013年3月7日朝刊掲載)

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