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社説・コラム

『潮流』 福島で守られる墓

■論説委員 岩崎誠

 原発事故の現場から25キロほど。福島県の浜通り地方にある広野町に先月末、足を運んだ。広島との意外な縁を聞いたからだ。

 大津波に襲われ、放射線の脅威にもさらされた町。1868年の戊辰戦争の激戦地でもあった。そこで命を落とした広島藩の若者たちが眠っているという。

 海沿いの修行院という寺を訪ねた。あの日は丘の上の本堂まで海水が押し寄せたが、今は復旧が進んでいた。境内には「藝州(げいしゅう)」という文字や戦死者の名を刻む風化した墓石が四つ。

 震度6弱の揺れで倒れ、割れたものは地元の石工に頼んで手弁当で修復してもらったそうだ。「代々大切にしてきたものだから。当然のことです」という住職の岡田文明さん(51)の気持ちに頭が下がった。

 ことしNHKの大河ドラマ「八重の桜」で注目を集める戊辰戦争の歴史。今なお会津との遺恨が持ち出される長州藩に比べ、新政府軍での広島藩の動きを知る人は多くないはずだ。

 有名な会津若松城攻めとは別に、戦闘を繰り返しながら海沿いを北上したのが「神機隊」という部隊だ。賀茂台地などの農家から集められ、何十人もの隊士が古里に戻れなかった。

 無念を刻む墓は浜通りのあちこちの寺に残る。震災後、元通りにされたものも多いようだが、もっと原発に近い地域は寺自体がどうなっているか分からない。

 遺族が参ることもない「敵」の墓だというのに長い間守り続け、菩提(ぼだい)を弔ってくれた地元の人たち。恩返しをしたくもなる。

 3・11から2年。福島は厳しい状況が続く。修行院のある広野町もそうだ。除染が一定に進み、避難した役場も学校も元に戻ったのに、町民5千人余りのうち帰還は1割強にとどまる。

 いま被災地への関心の薄れが指摘されている。歴史の縁も忘れず、何ができるかをもう一度考えたい。

(2013年3月9日朝刊掲載)

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