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社説・コラム

今を読む 映像で伝える被爆体験

メディアの責務 果たしたい

 ニューヨーク・タイムズの記者が広島での取材後、「爆心地が住宅密集地でなく、公園(平和記念公園)近くで、多少とも被害が少なかったのがせめてもの慰めだ」と語ったという。時間軸の逆転による錯覚におののくばかりだ。

 北九州市在住の28歳の男性から手紙をいただいた。調べ物をしていて、昨年8月4日付のこの欄に私が寄稿した「ヤン・レツル(原爆ドーム設計者)の故国を訪ねて」が目に留まり、筆を執ったという。電話で長時間話した。

 私はその記事で広島の中学、高校生の意識調査を紹介、「8・6は知っているが、8・9には?となる」と書いた。手紙の青年は「自分は小倉生まれなので8・9は身近に感じるが、8・6はそれほどでもない」と語った。

 「なぜ?」と問い返すと「小さいころから、長崎の原爆は本来、自分が生まれた小倉に投下されるはずが、天気の関係で長崎に落とされた、と教えられてきた」と説明してくれた。「そういうものか」と考え込んだ。

 人類初の惨劇が時間の経過により、少しずつ、確実に色あせつつある。忘却に追いやってはならない事実が風化していく冷徹さ。「伝承」の重要さを再認識せざるを得ない。

 広島テレビは昨年9月1日、開局50周年を迎えた。この1年余、さまざまな記念番組や事業を展開し、そのフィナーレとしてDVDを制作した。

 50年の間に、広島テレビは被爆者の声をどれだけ伝えたか数え切れない。ドキュメンタリーだけでも優に100本は超える。そのうち、各界から表彰を受けた作品を厳選し、DVD化にあたり、出演者の肖像権や音楽、文芸などの著作権の許諾を得るという難作業を続けてきた。これらをクリアしたのが次の4本を収録した「ヒロシマを伝える」。

 ①「碑」=広島二中(現観音高)の1年生が爆心地近くで被爆、全滅した記録。親、兄弟の証言を丹念に集め、杉村春子さんが語り部となった1969年の作品。

 ②「家路」=文化勲章受章者の平山郁夫画伯が中学3年時に被爆、それが画風に影響を与えた経緯や家族との絆を描いた77年の作品。

 ③「チンチン電車と女学生」=戦争末期、大半の成年男子は戦地に赴き、女学生が広電を運転していた。それでも電車は被爆3日後に走った。吉永小百合さんがナレーターを務めた2003年の作品。

 ④「消えた町並みからのメッセージ」=原爆投下前の爆心地周辺の古い町並みをCGで蘇(よみがえ)らせる元住民の取り組みを追った05年の作品。これを見ればNYタイムズ記者も「爆心地が公園近くでよかった」とは言えまい。

 延べ4時間近い映像と音声の記録。広島テレビはこれを県内の中学、高校、大学や図書館、被爆者団体、原爆資料館、長崎市や国会図書館、国連関係機関などに贈呈する。12日には松井一実広島市長に市の関係分100枚をお渡しした。今夏、世界平和首長会議で広島に集う外国の参加者には英語字幕版を寄贈する。

 あの悲惨な出来事から67年余。時の流れは刻々と忘却を膨らませ、無知さえも生む。冷厳な現実だ。広島では8月6日の8時15分には、町行く人が歩みを止め、黙禱する姿がある。しかし、高校まで広島で育ち、福岡県の大学に進んだ女子学生はこの日、広島で見られた風景がなく、ヒロシマに無関心なことにショックを受けた。そして内定済みの就職先に断りを入れ、今、原爆資料館で学芸員として「伝承」に関わっている。

 その伝承も困難さを増している。被爆時10歳で多少の記憶が残る子供は今、すでに喜寿。次第に「間接伝承」にならざるを得ない。

 広島テレビが開局50周年に制作した映像と音声のナマの記録「ヒロシマを伝える」。これが伝承の一助になれば、広島のメディアとして多少の責務を果たせるかなと思う。50周年事業は今月末で区切りをつける。しかし、メーンコンセプトだった「平和への一筆」(piece for peace)事業は今後も続けることを決めた。「被爆の伝承」「平和の伝承」には区切りをつけないために…。

広島テレビ社長 三山秀昭
 46年富山県生まれ。早稲田大卒。読売新聞記者、ワシントン特派員、政治部長などを歴任。2011年6月から現職。

(2013年3月19日朝刊掲載)

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