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社説・コラム

『寄稿』 追体験 沖縄戦での「飯上げ」 広島経済大4年 森下沙也佳 

命に向き合うこと知る

 太平洋戦争で民間人を含む約20万人が犠牲になったとされる沖縄県を、2月に訪れた。広島経済大の岡本貞雄ゼミの学生57人。「命の貴さを考えるとともに、この惨劇を風化させてはいけない」と毎年、開いている追体験授業のためである。

 7回目の今回、体験したのは「飯上(めしあ)げ」。沖縄戦が始まった直後の1945年4月、沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の生徒で構成する「ひめゆり学徒隊」に課せられた作業である。井戸があった炊事場から山中に掘られた病院壕(ごう)に食事を運ぶ任務。資料が残る沖縄本島南部、南風原(はえばる)町の南風原文化センターの協力を得て、実際に作業が行われた「飯上げの道」を歩いた。

 当日は土砂降り。どんな状況でも休めなかった当時に思いをはせた。作業は、一斗樽で作った飯おけに麦飯を入れ、てんびん棒につるして2人一組で担ぐ。全体で15キロ以上にもなる。その担ぎ手は、今の私より若い15~17歳の少女たち。目指す壕は標高40~50メートルの丘の上にある。

 私は、ペアの友人と歩き出した。獣道のような細い山道はぬかるみ、歩を進めるだけでも大変だった。身長差や勾配も考慮しないとうまく運べないことも知った。上り坂では先頭は棒を少し下げ、後ろは上げなければならない。ひっくり返したら、その日、壕で待つ患者や仲間約150人の食事はなくなる。

 当時は、頭上を飛び交う敵機にも神経をとがらせなければならなかった。煙が上がる炊事場は見つかりやすく、危険だった。実際に米軍の砲弾で死傷する生徒もいて、壕を出る際は衣服を整え、周囲に別れのあいさつをしたという。作業は極限の恐怖との闘いでもあった。

 飯上げの体験者で、糸満市のひめゆり平和祈念資料館館長の島袋淑子さん(85)からは「近くで砲弾がさく裂し、爆風でおけのふたが飛び、中に泥が入ってしまったことがある。それからは、至近弾の場合は自らの体でおけを覆った」とも聞いた。

 壕までは20分ほどだったが、ぬかるみに足を取られながらたどり着いたときには、手が震え、しばらくその場から動けなかった。運ばれた麦飯で全員のおにぎりが作られる。当初はテニスボールほどあったそうだが、食糧が不足してきた5月末にはピンポン玉ほどになったという。

 「病院」といっても急造の野戦病院で、十分な治療を望める環境ではなかった。壕内は湿度も高く、負傷者の化膿(かのう)した傷口や、汚物から出る悪臭で充満していたそうだ。米軍の侵攻で病院の移転が決まると、自力で歩けない負傷者に手りゅう弾と乾パンを渡し、置き去りにする冷酷な現実も目にしなければならなかった。

 私は、広島で暮らしてきたこともあり、戦争や命について考えてこなかったわけではない。だが今回の体験から、想像をはるかに超えるつらさ、悲惨な現実があったことを教えられた。そんな場に身を置かざるを得なかった人たちのことを思い、命についてより真剣に向き合うようになった。

 終戦から70年近くたつ今、いじめや自殺で命を絶つ人は後を絶たない。「命について少しでも考えるきっかけになれば」との願いを込め、参加者全員でこの体験を振り返り、ことしも冊子「オキナワを歩く」にまとめて、報告したい。

(2013年5月6日朝刊掲載)

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