×

社説・コラム

『論』 水俣病と詩 まず「感じ取る」ことから

■論説委員 石丸賢

 86歳の作家石牟礼道子さんの講演を先月、福岡市内で聞いた。本人が「演壇に登るのはこれで最後」と臨んだという集会だった。

 ほぼ半世紀になる。水俣病に言葉を奪われた患者さんたちに成り代わり、「苦海浄土」などの文学に結晶させてきた第一人者である。

 立ち見まで出た会場。耳を傾ける約700人の前で歯に衣(きぬ)を着せなかった。

 家じゅうで後遺症にあえぎながら、患者認定の申請を「1軒から一人出すのだけでも心苦しい」と言い、自分を押し殺す。そんな地域への遠慮を行政は推し量ろうとせず、たとえ察しても知らんぷりを決め込んできた、と。

 石牟礼さんはパーキンソン病を患い、言葉が途切れ途切れだった。弁舌が思うに任せないためか、締めくくりには自作の詩を読んだ。

 40年近く前の著書「天の魚」に収めた「生死(しょうじ)のあわいにあれば」と題する1編。中に、こんな一節がある。

 「いまひとたびにんげんに生まるるべしや/生類のみやこはいずくなりや/わが祖(おや)は草の親/四季の風を司(つかさど)り/魚の祭を祀(まつ)りたまえども/生類の邑(むら)はすでになし」

 経済成長には多少の犠牲もやむなし、と目をつぶるのが戦後日本の歩み方だった。中央から遠く離れた地の人を、そして生きとし生けるものをむげにしてきた。

 東京電力福島第1原発の惨事を経た今、石牟礼さんが今生へのいわば手向けとしてこの詩を選んだ意味は重い。

 水俣の悲惨は高度成長の昔話なのだろうか。日本の社会は事件に学び、変わったといえるのか。詩は深く、静かな問い掛けにほかなるまい。

 もっとも耐えがたいものを語ろうとするとき、詩になる―。戦後の詩人である石原吉郎は、そう説いた。シベリア抑留に伴う「失語」状態を経て、詩作に活路を見いだした人ならではの言であろう。

 折しも、市立水俣病資料館の館長だった坂本直充さんが先ごろ、詩集「光り海」(藤原書店)を世に問うた。

 序章に続く「満ち潮」という詩はこう始まる。

 「時は来た/水俣という重い空間の中で/ことばが存在と等しくなる時まで/わたしは待ったのだ」

 詩の幾つかに固有名詞が見える。「智子」は母の手で湯につかる写真で世界に水俣を知らしめた胎児性患者の少女。四面楚歌(そか)も辞せず告発と救済運動の最前線に居続けた「川本輝夫」。「杉本栄子」は生涯かけて患者差別の恨みを「のさり(天の恵み)」と捉え直した語り部…。

 何人もの壮絶な闘いを見届けるうちに、自分の順番と坂本さんは悟ったのかもしれない。胸の奥で長い間、自問自答を繰り返し、ことばが満ち満ちてもいたのだろう。

 政府が「最終決着」と決め込み、特別措置法による患者救済を締め切った昨年夏。地元紙の取材に応え、自らも胎児性患者かもしれないことを初めて公にしている。

 作品「夜明け」は同時代に対する警句集の趣もある。

 「文明を欲望のかけらだけ で組み立ててはならない

 水俣は未来の方程式になら なければならない(略)

 水俣の意味は

 民衆に背骨を入れること」

 水俣の教訓を畳み込み、後世に引き継ぐ写真や書物、絵画を集めた「水俣・福岡展」がきのう、福岡市のJR博多駅ビルで始まった。この社会はどこに向かおうとしているのか。いま一度、確かめておきたい。

 「耐えがたいもの」に思いをいたすには、知ること以上にまず感じ取ることが欠かせない気がする。

(2013年5月16日朝刊掲載)

年別アーカイブ