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社説・コラム

『潮流』 「主語」の欠落

■論説委員 金崎由美

 「アトミック・カフェ」という30年余り前の米国の記録映画を見る機会があった。原爆の使用や核実験を称賛する映像を集め、延々とつないだ作品である。米政府やメディアがどうやって世論を原爆の肯定へと誘導したのか、皮肉を込めてあぶり出す。

 カメラ目線のトルーマン大統領が「敵ではなく、われらに原爆が託されたことを神に感謝する」と演説する。戦勝に沸く群衆の映像とともにこんな意味の挿入歌も流れる。「兵士たちの祈りが神に届いた それがヒロシマを直撃した爆弾」

 もちろん、広島と長崎に甚大な被害を与えたのは神ではない。

 誰が使ったのか、どの国に責任があるのか―。原爆が正当化されるほど見失いがちになる。原爆投下を「神の懲罰」と主張するコラムが韓国の新聞に載ったことからも、あらためて気付かされた。

 あきれるばかりである。同胞の被爆者が味わった苦難をも無視した発言であり、不見識極まりない。そもそも、原爆投下が戦争終結を決したとみる歴史研究者は少ないのである。

 だがアジアに目を向ければ、あれこそが軍国主義の日本を降伏させたという「神話」が根強いのも現実だ。国家責任を問う矛先は、被爆者にも向く。

 原爆を使った当事者にすれば、頬かむりするのに好都合であることこの上ない。こんな時こそ、被害者からの追及が欠かせまい。そうして初めて、過去をめぐる正しい認識が国際社会に浸透していくはずだ。

 核兵器なき未来に向け、被爆地はさまざまな平和の訴えを発信してきた。世界の共感を呼ぶのも、メッセージの普遍性ゆえだろう。

 その半面、「誰が原爆を落としたのか」という問いが今、かすんではいないだろうか。「主語」の欠落は米国、韓国だけでなく足元にもある。

(2013年6月8日朝刊掲載)

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