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社説・コラム

『私の師』 回天記念館館長 松本紀是さん

「平和を愛して」が口癖

 周南市大津島の回天記念館で、来館者を案内する指導員として働き始めた。それから3カ月後の2006年7月。人間魚雷「回天」を搭載した伊366潜水艦の乗組員だったという男性がしわがれた声で「周南市に来ているので宿泊しているホテルに来なさい」と電話してきた。海軍1等兵曹の池田勝武先生(12年10月に86歳で死去)だった。

 ホテルに行くと、潜水艦の乗組員5人がいた。恐縮して質問もできず、ただ5人の会話を聞いていた。翌日、回天記念館に来てくれた池田先生は、慰霊碑にこうべを垂れて「あの時は、すまなかった。ありがとう」と語り掛けた。「潜水艦から回天を発射した時、艦長の目は真っ赤だった。潜水艦には血の通った人々がいたんだ」。優しくつぶやいた。

 池田先生は横浜市に生まれ、1942年に海軍横須賀第2海兵団に入団した。パガン島やトラック諸島のメレヨン島へ弾薬や食料を輸送し、負傷した兵士を連れて帰っていたという。45年に回天特別攻撃隊を乗せた潜水艦に乗艦。3基の回天が発射されるのを見送った。

 一本の電話から交流が始まった池田先生は常に丁寧だった。「回天は、どの時点で潜水艦から発射されるのですか」。初歩的な質問にも細かに答えてくれた。7年間で会ったのは8回だけだが、200通以上の手紙のやりとりがあった。

 西京銀行(周南市)を定年退職したのは2005年。新聞に「戦後60年」の見出しが並ぶのを見るたびに、幼少の時に見た映画が恐く、戦争の話題を避け続けてきた60歳の自分がいた。妻の勧めもあり、「終戦(の年)生まれの自分だからこそ」と指導員に応募した。来館者は20、30代も多く、驚きとともに身が引き締まる思いでいる。

 昨年4月、館長に就任した時に一番喜んでくれたのが池田先生だった。お祝いに花をいただいた。会うたびに「もう少し近ければな」と言ってくれた。

 亡くなる前、私を周南市のホテルに呼び出した理由を尋ねた。以前、池田先生が記念館に電話をした時、応対したのが私だったという。その時に「彼なら回天のことを大切にしてくれる」と思ったからと。本当の父親のような愛情を注いでもらった。

 回天は人を殺す兵器だ。戦争という厳しい時代で、家族や古里を守る手段が、人間魚雷や潜水艦に乗り込むことしかなかった若者がいたことを忘れてはいけない。

 回天を見送った乗組員の人生にも、その精神は寄り添い続けている。池田先生の口癖は「戦争は絶対いけない。平和が一番いいじゃないですか。平和を愛しなさい」。若い世代にこの口癖を伝え続けていきたい。(聞き手は滝尾明日香)

まつもと・としゆき
 1945年、山口県周東町(現岩国市)生まれ。高森小、高森中、高森高を経て、64年に山口相互銀行(現西京銀行)に入行。大島、光、県庁支店などを経て2005年6月、定年退職。06年4月、周南市教委社会教育指導員として回天記念館に勤務。10年11月、同館事務長。12年4月から現職。周南市在住。68歳。

(2013年6月17日朝刊掲載)

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