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社説・コラム

『論』 被爆資料返還40年 もう一つの「遺産」後世に

■客員論説委員 山内雅弥

 占領下、米軍に接収された広島・長崎の被爆学術資料が戻ってきて、今年は40年の節目に当たる。原爆の惨禍が刻まれた人類の貴重な遺産。恒久保存に向け、本腰を入れて取り組むべきではないか。

 1973年5月に米政府から日本に返還された被爆資料は病理標本、医学記録ホルダー、写真の三つに大きく分類される。広島、長崎合わせて2万3千点余りの膨大な資料が、広島大原爆放射線医科学研究所(原医研)と長崎大原爆後障害医療研究所にそれぞれ保管されている。

 病理標本の内訳は解剖された被爆者の臓器をホルマリンで固定した標本が681点、パラフィンブロックに包埋された標本が953点、顕微鏡観察用のスライド標本は1769点に上る。

 医学記録ホルダーにはカルテや検診記録、解剖記録など被爆者1万7993人分のデータを収めている。

 写真資料(フィルム)は主な建造物を被爆前後で比較したものや被爆者の症状、市内の様子などで、カラーも含め1879枚に及ぶ。

 資料の多くは、被爆直後に治療や調査活動に当たった旧軍、大学、病院などの日本人医学者や写真家らが収集・記録したものだ。それが「日米合同調査」の名の下、米軍に接収され、45年末には米本国に持ち去られた。

 以後、28年間にわたってワシントンの陸軍病理学研究所(AFIP)に保管されていた。文字通り「戦利品」として原爆の傷害効果(威力)を把握するための調査研究に利用。もとより日本人研究者の目に触れることはなかった。

 返還当時、被爆地のみならず、各地で市民の大きな反響を呼んだ。資料の公開に合わせて、広島市をはじめ福山、三次、岡山、山口の各市などを巡回した資料展には、延べ20万人以上が来場したと当時の新聞は伝えている。

 広島では学者や文化人、ジャーナリストを中心に「原爆被災白書運動」の地道な取り組みが続けられていた。日本学術会議も71年、被爆資料の収集・保存・活用の拠点となる「国立原水爆被災資料センター」の設立を政府に勧告。こうした世論の高まりが返還に弾みをつけたことは間違いあるまい。

 残念ながら独立の資料センターを設ける構想は実を結ばず、大学の既存施設の拡充措置にとどまった。

 広島大の場合、返還された1万1256点は原医研の原爆医学標本センターに保管され、被ばく資料調査解析部に改組後も引き継がれてきた。

 被爆から70年近く経過し、将来にわたって良好な状態で維持できるかどうか、危ぶむ声も出ている。資料の劣化に加え、人員と予算をやりくりしながらの保存を余儀なくされているからだ。

 原医研では研究棟の移転に伴い、複数の建物に分散して保管。一応エアコン設備はあるものの、保存を専門とするスタッフがいるわけではない。一部デジタル化に着手した紙のカルテ類に加え、病理標本についても劣化対策を急ぐ必要がある。

 資料の活用をめぐる問題も見逃せない。返還被爆資料の存在そのものを知らない若手研究者も多いという。

 こうした一方、長崎大の研究者によって被爆者の病理標本から残留放射能の飛跡が初めて検出され、注目を集めたことは記憶に新しい。標本から遺伝子の異常を解析する試みも始まっている。

 科学技術の進歩が新たな活用に道を開いた好例だろう。返還資料の意義は歴史的価値にとどまらない。将来を見据えた保存対策とともに、資料をリンクさせたデータベースの整備など利用しやすい環境づくりが求められる。

(2013年6月20日朝刊掲載)

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