×

社説・コラム

『論』 被災地支援と岩手・遠野 「国のかたち」が問われた

■論説副主幹 佐田尾信作

 「カッパ淵(ぶち)」をのぞくと、立てた釣りざおにキュウリの仕掛け。人影は見えず、結んだ札を読むと「名人専用につき触れないで」とある。カッパだけではない。岩手県遠野市を初めて訪ねて驚いた。

 うば捨ての「デンデラ野」を指す木の標識も実際にある。日本人が知る数々の伝承は柳田国男の100年余り前の名著「遠野物語」に凝縮され、今も息づいているのだ。

 三浦佑之・赤坂憲雄著「遠野物語へようこそ」には、遠野は盆地であっても古来開けた交易の地だからこそ、さまざまな話が流通して蓄えられた、とある。なるほど、柳田自身、「山奥には珍しき繁華の地なり」と評している。

 だが、1世紀の後、被災地支援という外に開かれた役割を果たすとは、この知識人も想像さえしなかっただろう。

 遠野市は2007年、地震・津波に備えた「後方支援拠点施設整備構想」を打ち出し、2年続けて総合運動公園を使った大掛かりな訓練を実施していた。釜石市などの沿岸部へ車で1時間、ヘリなら15分の立地である。

 震災当日は発生14分後の午後3時には運動公園を開放。陸上自衛隊員3500人が集結し、県外の消防、警察の拠点を受け入れた。翌日未明には沿岸部の惨状が伝わり、物資の直接支援も始まる。

 遠野も無傷ではなかった。被害総額27億円。震災後、総合防災センターは整備したものの、本館が全壊した市庁舎は今も商業ビルに仮入居している。だが、本田敏秋市長に話を聞くと、苦労したのはむしろ国―県―市町村と連なる、制度や権限の壁だった。

 「山田町から自家発電機輸送の要請を受けたが、私からは陸自に指示できません。県はどうするんだ、などと言っているうちに陸自の自主判断でヘリが飛んだこともあります」。そもそも官邸が機能していなかったのではないかと、今もいぶかる。

 一方で自治体同士の連携は機能したといえよう。どちらかの被災に備え、あらかじめ決めていた互助の仕組みだ。全国知事会の申し合わせで静岡県が発生から半月後、遠野市に現地支援調整本部を置いたほか、複数の友好都市がここを経由して救援に入った。

 災害時に市町村の責任は極めて重い。あえて法令順守より救助を優先させた首長の判断も多々あったはずだ。

 憲法92条が保障する「地方自治の本旨」とは、住民自治と団体自治を意味する。きょう公示される参院選。地域主権や統治機構をめぐる議論は盛り上がりを欠くが、問われるべきは地方自治の本旨が尊重される「この国のかたち」ではないのだろうか。

 本田市長は言う。「県の組織防衛のような広域連合ではなく、きちんとした道州制の方がいい。もう無理な市町村合併はしない。小さな村も身の丈に合わせて頑張ろうと、州政府が応援すればいい」

 戦後日本は沿岸部を重化学工業地帯として興隆させたが、遠野市の後方支援は内陸都市の存在価値も高めたに違いない。中国地方には三次、庄原、美祢、津山、新見などの拠点都市が内陸部にある。

 減災・防災が何より重視される時代が到来した。「多極分散型国土の形成」が第4次全国総合開発計画(4全総)で打ち出されて四半世紀。その後の高速道路網や情報通信網などの整備と相まって、沿岸部から内陸部へ、中央から地方へ、分権・分散型の国土のあり方がもう一度、議論されてもおかしくない。

 かつてこの国では、山深い土地土地に無数の「山神山人」の伝説があったという。柳田は「願わくはこれを語りて平地人を戦慄(せんりつ)せしめよ」と「遠野物語」の序文に記す。

 アベノミクスを掲げた政権党の参院選での優位は動かないとはいえ、4月以降の複数の首長選で敗北したのもまた有権者の判断の結果である。「霞が関、永田町を戦慄せしめよ」という民意が、再び胎動していないとも限らない。

(2013年7月4日朝刊掲載)

年別アーカイブ