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社説・コラム

今を読む 学校単位の原爆慰霊祭

個人体験の風化 影落とす

 広島市内の高校の多くに共通する夏の行事が、原爆の犠牲になった生徒の追悼式や慰霊祭である。旧制中学校・女学校の当時、軍の命令で家屋疎開作業の勤労奉仕に動員され、命を奪われた。約6千人の大部分が1年生だった。

 陸軍の将校が各校の教師を呼び付け、強圧的に命じた作業が悲惨な結末を招いた。教師や生徒らの痛ましい最期は、学校ごとに語り伝えられている。中学併設校なら中学を含めて、各校それぞれ慰霊祭が厳粛に営まれてきた。

 学校が主催するもの、同窓会・遺族会が主催するもの、両者が共催するものなど、さまざまで、原爆の日の当日か前後の日が選ばれる。私学の宗教系学校では、それぞれの儀礼に従って営まれるが、そのほかの学校、特に公立校は宗教色を薄めている。

 広島は浄土真宗の影響が強く「安芸門徒」「真宗王国」と呼ばれてきた。その土地柄に配慮して、2部形式の慰霊祭もある。前半は学校・同窓会共催で宗教色抜きだが、後半は「慰霊碑保存会主催」として導師を迎え、仏式の法要が営まれる。全員が通しで参列するから、実質的には仏式の慰霊祭である。

 市が原爆死没者の追悼行事に補助金を支給するのは、宗教色抜きの場合に限られる。具体的には、献花はいいが焼香はいけないという。では花には宗教色はないのか。

 キリスト教の葬式の場合、仏教で「御香料」と書く包みに「お花代」または「献花」と書くのが通例だ。またカトリックのミサでは香炉が用いられる。花も香も、人としての追悼の気持ちの表れであり、ことさら気にする必要はないと私には思われる。

 1994年は仏教でいう五十回忌だった。この年の慰霊祭の後で、各校関係者の一部からこんな声が出た。「五十回忌は仏教では『とむらいあげ』だ。学校単位の追悼行事の開催は、ことし限りにしてもよいのではないか」と。

 とはいえ、その翌年以後も各校の慰霊碑前には、遺族や元同級生など、ゆかりの人々が集まった。犠牲者の親たちが世を去った後は、兄弟姉妹が志を継いでいる。

 だが、それから20年近くたった今、幾つかの学校で時代の変化を感じるという声を聞く。ある高校はことしから、学校主催だった慰霊祭を同窓会主催に切り替えるという。また別の高校は、遺族会・同窓会主催の慰霊祭を参列者の会費制にするとのことだ。式次第に変更はなく、式場設営や運営には従来通り在校生が協力するのだが…。

 犠牲者の親たちが健在だったころ、一部の学校では招待を受けた親の中に「お供え」の金一封を差し出す人がいた。それが費用の一部に役立てられた。しかし参列者がおいやめいの世代に変わると、それが期待できない学校があるとも聞いた。あるいは、こういった事情が変化にからんでいるのだろうか。

 私は30年ほど前、大阪府内の私立大学で非常勤講師を務めたことがある。2クラス120人の学生に「身内に戦没者のいる人は」と尋ねたが誰も挙手しなかった。戦後40年近くたっていた。3親等、4親等と離れると、家族意識が希薄になると感じた。

 また、公立校には以下のような事情もからむのだろう。被爆当時の広島市には、県立・市立合わせて6校の中学校・女学校があった。それが戦後の学制改革で、共学の5高校に再編成された。

 原爆犠牲者と同学年だった生徒はA校に入学したものの、卒業はB校という例が多い。先輩後輩の同窓意識が微妙なまま、今に及んでいると指摘する人もいる。

 核廃絶を実現するまでは被爆体験を風化させてはならないという決意を、広島市民が今なお抱いているのは事実である。だが市民総体の決意は不変であっても、個人レベルの体験継承には風化する部分がないとはいえないのではないか。それが私の思い過ごしであるなら幸いだが。

 原爆の日が近づいた今、率直な思いの一端を記した。被爆者の一人として、新たな課題を与えられた思いである。

宗教ジャーナリスト 山野上純夫(やまのうえ・すみお)
 29年高知県四万十町生まれ。広島高師付属中在学中に被爆。広島大卒。毎日新聞編集委員、中外日報論説委員を経てフリー。著書に「法衣のかげで―仏教界・この現実」など。京都府八幡市在住。

(2013年7月30日朝刊掲載)

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