佐々井秀嶺師と福島 フォトジャーナリスト 山本宗補 「脱原発こそ本当の回向」
13年8月5日
<div style="font-size:106%;font-weight:bold;">「口上」に憤りを込め</div><br>
2009年に44年ぶりの一時帰国を果たし、「二度と日本には帰ってきません」と言い残してインドへ戻った。新見市出身の仏教指導者佐々井秀嶺(しゅうれい)師、77歳。その師が東日本大震災の発生以降、3年続けて一時帰国し被災地を行脚している。 <br><br>
佐々井師はインド下層の民衆がカースト制の色濃く残るヒンズー教を捨て、人間の平等を説く仏教に集団改宗するよう運動してきた。10年には長年の大願だった「龍樹菩薩(ぼさつ)大寺」も完成させ、日本から超宗派の僧侶の参列で大がかりな落慶法要を成功させた。 <br><br>
その佐々井師を再び母国に引き戻したのが大震災と原発事故だ。大津波の映像をインドで見て「もう涙が止まらなくてね」と、一時帰国の意思を電話で伝えてきた。大震災から3カ月後、私は師を東北被災地に案内し、死者・行方不明者の魂を慰める3日間の読経行脚をお願いしたのだ。<br><br>
岩手県宮古市から始まり、最後は原発事故によって住民の姿のない福島県南相馬市へ。「私たちは大自然の脅威に対し、もう何もできず手を上げております」と、津波の破壊力に師も圧倒された。 <br><br>
だが、原発事故による目に見えない影響を知るにつれ、読経前の「口上」は変わっていく。原子力発電は「人間のために」生み出されたものなのに日本人を破滅に導くのか、と憤りを募らせた。 <br><br>
「地下に眠る多くの人たちに対する本当の回向は、全原発を廃止することではないか」「いかに坊さんが経典を読んでも、この原発を廃止できなければ無力であり、仏法も教学も無益である」 <br><br>
それから半年後の12月、伝統仏教の主な宗派で組織された全日本仏教会が「脱原発」を宣言した。佐々井師と懇意の河野太通会長名で出されたのである。 <br><br>
佐々井師はことしも6月に来日し、私は福島原発周辺の旧警戒区域に案内した。原発から14キロ北西、浪江町の広大な牧場で400頭余りの被曝(ひばく)した牛を飼う「希望の牧場・ふくしま」の吉沢正巳さんを訪ね、家畜の霊を丁重に弔った。また、原発から12キロ、富岡町の松村直登さん方でも、生きとし生けるものの供養を懇ろにした。 <br><br>
2人が事故後も避難せず、被曝覚悟で生き物を見捨てなかったと知ると、「菩薩道ですな」と佐々井師はつぶやく。南相馬市の仮設住宅では2間で避難生活を続ける70代の夫婦と交流し、帰還したくてもかなわない現実に揺れ動く心情を知って目頭を熱くした。 <br><br>
日中の立ち入りしか許可されない避難区域の寺院本堂にも立った。津波で墓が流されたり、帰還困難区域にあったりして、納骨できない十数の骨つぼを前に読経した。津波の犠牲者や震災関連死の人たちのお骨である。 <br><br>
かくのごとく事故収束はおぼつかないのに、安倍晋三首相は原発輸出に前のめりだ。核兵器を保有し、原発を推進するインドに対してもそうである。 <br><br>
師は6月初め、「反原発国会大包囲」にも参加し、日本でもこれだけの人(主催者発表で約6万人)が集まったことに感動していた。7月初め、インドに帰国。核実験があれば首都ニューデリーに乗り込み、「首相よ、ブッダが嗤(わら)っているぞ」と舌鋒(ぜっぽう)鋭い演説をしてはばからなかった師のことだ。反原発の決意を新たに、行動するだろう。 <br><br>
<strong>やまもと・むねすけ</strong><br> 1953年長野県生まれ。著書に「鎮魂と抗い―3・11後を生きる人びと」など。近著は「戦後はまだ―刻まれた加害と被害の記憶」。広島の被爆者にも取材した。東京都東久留米市在住。 <br><br>
(2013年8月5日朝刊掲載)