8月6日に寄せて 「核の傘」握りしめる日本の時代遅れ 吉田文彦(朝日新聞論説副主幹)
13年8月26日
核使用の脅しで相手の攻撃を抑える。そんな核抑止について、英国の学者、ローレンス・フリードマン博士がかつて、こんな風に書いていた。「抑止という王様は裸かも知れないが、それでも王様ではある」
どういうことか―――
1945年以降、欧州では平和が続いた。これは核抑止が、信頼できないものであるにせよ、実効性があることを示している。いったん核戦争になったら、事態はどう展開するのか。核戦争を思うように運び、管理できるかのように準備したところで、すべてが手におえない状態なりかねないという恐怖心が残るだろう。そうした恐怖心こそが、世界において、慎重さを保つ力の源泉になっている。
だから、たとえ裸であっても、つまり、かなり怪しい姿であっても、王様は王様だというわけだ。
ところが近年、核抑止は裸であるばかりでなく、実は王様でもないのではないかとの主張が目立つようになってきた。抑止効果そのものへの疑問、否定である。
先日、来日したギャレス・エバンズ元オーストラリア外相に会った。話が核抑止に及ぶと、自分が書いた小論をぜひ読んでくれとすすめられた。その夜、さっそく目を通してみると、こう書かれていた。
「安定的な平和にとっての有用性という点からみると、核抑止は最も良くいってもとても怪しい存在、最も悪く言えば有用性ゼロだ」
核抑止の限界を堂々と、政府や軍の元高官たちが語るようになった大きな転機は、「米国の四賢人」の投稿だったように思う。
2007年1月4日付の米紙ウォールストリート・ジャーナル。連名の筆者は共和党の元米国務長官ジョージ・シュルツ氏とヘンリー・キッシンジャー氏、 民主党の元国防長官ウィリアム・ペリー氏と元上院軍事委員長サム・ナンの4人だった。
かつてはパワーポリティクスの権化のような存在で、核兵器が世界の安全に欠かせないと主張していた。その重鎮たちが一緒に「核兵器のない世界を」と言い出したのだ。今後、核拡散が進んだり、核テロのリスクが高まったりすることもありうるので、核の存在がかえって米国や世界の安全を脅かす、との基本認識からの提言だった。
「核による抑止効果は限られたものでしかない」。四賢人の中心人物であるシュルツ氏の持論を目の前で聞いたのは、2年前のことだった。
米ソ首脳が核廃棄の合意寸前まで進んだ「レイキャビク会談」が、1986年秋にあった。それから四半世紀の節目に、「核のない世界」への方策を改めて追求しようと、ロサンゼルス郊外にあるレーガン大統領図書館で国際会合が開かれた。
壇上のゆったりとしたいすに腰掛けて語り始めたシュルツ氏は何の迷いもなく、核抑止の限界を強調した。
いわく――核兵器使用をめぐる戦略を精査してみると、核兵器が大いに役立つ存在というわけではないと気づくだろう。核兵器は冷戦期の米ソ核戦争を防ぐ効果を持っていたかも知れないが、現在の安全保障上の脅威は大きく異なる。脅威の多くがテロによる攻撃であり、核抑止で防ぐことはできない。核テロだってサイバーテロだって、核報復による脅しで抑え込めない。
シュルツ氏がレーガン政権の国務長官だった最後の時期に、コリン・パウエル氏(後の国務長官)は大統領補佐官(国家安全保障担当)をつとめていた。そのパウエル氏に今年6月にインタビューした時も、核抑止が壁にぶちあたっている現実を語ってくれた。
「まともなリーダーならば、核兵器を使用するという最後の一線を踏み越えることはない。使用できないのであれば、基本的には無用だ」
さらに、2002年にインド・パキスタンが対峙した際の秘話も明かしてくれた。
「危機が起きた際、パキスタンのムシャラフ大統領に電話して、こう言った。『あなたも私も核など使えないことはわかっているはずだ。1945年8月の後、初めて核兵器を使う国やリーダーになるつもりなのか。もう一度、広島、長崎の写真を見てはどうか。あんなことをしたいのか、考えたりもするのか』と。もちろん、パキスタン大統領の答えは『ノー』だった。インドも同様な反応だった。彼らは冷静になり、危機は去った」
この秘話は、こちらからグイグイ押して聞き出したのではなく、パウエル氏の口から自然に出てきた。被爆地の写真が持つ力を語ることによって、核の非人道性についての信念を表現してくれたのだと思う。
さて、日本である。中国が核装備の近代化を進め、北朝鮮が核実験を繰り返す安全保障環境のなかで、日本政府内では、米国が提供する「核の傘」への期待感が以前にも増して強まっている。
他方、「核の傘」の持ち主である米国の方は、「プラハ演説」で「核のない世界」をめざす方針を打ち出したオバマ大統領のもと、核弾頭の数、核の役割縮小に向けて動いている。シュルツ氏やパウエル氏らが核廃絶論を提唱するなど、一昔前の米国とは異なる方向へ動き出している。
日本政府は、核攻撃を受けない限り核を先に使わないという「核先制不使用宣言」に極めて消極的な構えを見せてきた。たとえば、北朝鮮が化学兵器を使ってきた場合に核で報復する選択肢も残しておかないと、抑止力が弱まりかねないとの理屈からだ。
そんなこともあり、パウエル氏に、北朝鮮に対して米国は、通常兵器だけで抑止力があると考えているのかと聞いてみた。すると、こんな答えが返ってきた。「私の個人的な見方だが、通常兵力は強力であり、核兵器を使わなければならないことはない」。何のことはない、日本に提供されている米国の抑止力は、現実的にはほとんど「核の傘」ではなく、「通常兵器の傘」なのだ。
米国その他の知人から、米国の同盟国の中で日本ほど「核の傘」に頼る国はないと言われたことがある。このままでは、米国が核兵器の数を大幅に減らそうとしても、日本が「核の傘」の弱体化を懸念する結果、減らすに減らせない事態にもなりかねない。
核抑止という王様が裸であり、しかも王様であるこさえ疑わしくなっている今、日本政府が一番、王様に頭を下げているのでは、被爆国として、これほど皮肉で矛盾した話はない。
よしだ・ふみひこ
朝日新聞論説副主幹。1980年入社。外報部、科学部、経済部記者、ワシントン特派員、ブリュッセル支局長などを歴任。2012年より国際基督教大学(ICU)客員教授を兼任。主な著書に「核解体」(岩波新書)、「証言 核抑止の世紀」(朝日選書)、「『人間の安全保障』戦略」(岩波書店)、「核のアメリカ トルーマンからオバマまで」(同)。編書は「核を追う」(朝日新聞社)。
どういうことか―――
1945年以降、欧州では平和が続いた。これは核抑止が、信頼できないものであるにせよ、実効性があることを示している。いったん核戦争になったら、事態はどう展開するのか。核戦争を思うように運び、管理できるかのように準備したところで、すべてが手におえない状態なりかねないという恐怖心が残るだろう。そうした恐怖心こそが、世界において、慎重さを保つ力の源泉になっている。
だから、たとえ裸であっても、つまり、かなり怪しい姿であっても、王様は王様だというわけだ。
ところが近年、核抑止は裸であるばかりでなく、実は王様でもないのではないかとの主張が目立つようになってきた。抑止効果そのものへの疑問、否定である。
先日、来日したギャレス・エバンズ元オーストラリア外相に会った。話が核抑止に及ぶと、自分が書いた小論をぜひ読んでくれとすすめられた。その夜、さっそく目を通してみると、こう書かれていた。
「安定的な平和にとっての有用性という点からみると、核抑止は最も良くいってもとても怪しい存在、最も悪く言えば有用性ゼロだ」
核抑止の限界を堂々と、政府や軍の元高官たちが語るようになった大きな転機は、「米国の四賢人」の投稿だったように思う。
2007年1月4日付の米紙ウォールストリート・ジャーナル。連名の筆者は共和党の元米国務長官ジョージ・シュルツ氏とヘンリー・キッシンジャー氏、 民主党の元国防長官ウィリアム・ペリー氏と元上院軍事委員長サム・ナンの4人だった。
かつてはパワーポリティクスの権化のような存在で、核兵器が世界の安全に欠かせないと主張していた。その重鎮たちが一緒に「核兵器のない世界を」と言い出したのだ。今後、核拡散が進んだり、核テロのリスクが高まったりすることもありうるので、核の存在がかえって米国や世界の安全を脅かす、との基本認識からの提言だった。
「核による抑止効果は限られたものでしかない」。四賢人の中心人物であるシュルツ氏の持論を目の前で聞いたのは、2年前のことだった。
米ソ首脳が核廃棄の合意寸前まで進んだ「レイキャビク会談」が、1986年秋にあった。それから四半世紀の節目に、「核のない世界」への方策を改めて追求しようと、ロサンゼルス郊外にあるレーガン大統領図書館で国際会合が開かれた。
壇上のゆったりとしたいすに腰掛けて語り始めたシュルツ氏は何の迷いもなく、核抑止の限界を強調した。
いわく――核兵器使用をめぐる戦略を精査してみると、核兵器が大いに役立つ存在というわけではないと気づくだろう。核兵器は冷戦期の米ソ核戦争を防ぐ効果を持っていたかも知れないが、現在の安全保障上の脅威は大きく異なる。脅威の多くがテロによる攻撃であり、核抑止で防ぐことはできない。核テロだってサイバーテロだって、核報復による脅しで抑え込めない。
シュルツ氏がレーガン政権の国務長官だった最後の時期に、コリン・パウエル氏(後の国務長官)は大統領補佐官(国家安全保障担当)をつとめていた。そのパウエル氏に今年6月にインタビューした時も、核抑止が壁にぶちあたっている現実を語ってくれた。
「まともなリーダーならば、核兵器を使用するという最後の一線を踏み越えることはない。使用できないのであれば、基本的には無用だ」
さらに、2002年にインド・パキスタンが対峙した際の秘話も明かしてくれた。
「危機が起きた際、パキスタンのムシャラフ大統領に電話して、こう言った。『あなたも私も核など使えないことはわかっているはずだ。1945年8月の後、初めて核兵器を使う国やリーダーになるつもりなのか。もう一度、広島、長崎の写真を見てはどうか。あんなことをしたいのか、考えたりもするのか』と。もちろん、パキスタン大統領の答えは『ノー』だった。インドも同様な反応だった。彼らは冷静になり、危機は去った」
この秘話は、こちらからグイグイ押して聞き出したのではなく、パウエル氏の口から自然に出てきた。被爆地の写真が持つ力を語ることによって、核の非人道性についての信念を表現してくれたのだと思う。
さて、日本である。中国が核装備の近代化を進め、北朝鮮が核実験を繰り返す安全保障環境のなかで、日本政府内では、米国が提供する「核の傘」への期待感が以前にも増して強まっている。
他方、「核の傘」の持ち主である米国の方は、「プラハ演説」で「核のない世界」をめざす方針を打ち出したオバマ大統領のもと、核弾頭の数、核の役割縮小に向けて動いている。シュルツ氏やパウエル氏らが核廃絶論を提唱するなど、一昔前の米国とは異なる方向へ動き出している。
日本政府は、核攻撃を受けない限り核を先に使わないという「核先制不使用宣言」に極めて消極的な構えを見せてきた。たとえば、北朝鮮が化学兵器を使ってきた場合に核で報復する選択肢も残しておかないと、抑止力が弱まりかねないとの理屈からだ。
そんなこともあり、パウエル氏に、北朝鮮に対して米国は、通常兵器だけで抑止力があると考えているのかと聞いてみた。すると、こんな答えが返ってきた。「私の個人的な見方だが、通常兵力は強力であり、核兵器を使わなければならないことはない」。何のことはない、日本に提供されている米国の抑止力は、現実的にはほとんど「核の傘」ではなく、「通常兵器の傘」なのだ。
米国その他の知人から、米国の同盟国の中で日本ほど「核の傘」に頼る国はないと言われたことがある。このままでは、米国が核兵器の数を大幅に減らそうとしても、日本が「核の傘」の弱体化を懸念する結果、減らすに減らせない事態にもなりかねない。
核抑止という王様が裸であり、しかも王様であるこさえ疑わしくなっている今、日本政府が一番、王様に頭を下げているのでは、被爆国として、これほど皮肉で矛盾した話はない。
よしだ・ふみひこ
朝日新聞論説副主幹。1980年入社。外報部、科学部、経済部記者、ワシントン特派員、ブリュッセル支局長などを歴任。2012年より国際基督教大学(ICU)客員教授を兼任。主な著書に「核解体」(岩波新書)、「証言 核抑止の世紀」(朝日選書)、「『人間の安全保障』戦略」(岩波書店)、「核のアメリカ トルーマンからオバマまで」(同)。編書は「核を追う」(朝日新聞社)。