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社説・コラム

社説 ヒロシマ68年 核「絶対悪」認識してこそ

 ヒロシマは再び、慰霊の日を迎えた。

 68年前のきょう、児童や生徒の学びやに、工場や建物疎開の作業場に、人々を乗せた市内電車に、広がる家並みに、閃光(せんこう)や熱線は容赦なく降り注いだ。

 人々の暮らしは一瞬のうちに、爆風に吹き飛ばされた。路地に響いていた幼子の声も、家族の会話も。

 デルタ地帯は原爆の威力を測るには効果的な地形とみて、米国は広島を早くから投下目標に考えていた。しかも人々が日々の営みを始める月曜の朝に…。

 1945年8月6日、午前8時15分。罪のない市民の命を奪うことを承知の上で原爆を投下した。そして放射能の脅威は今も被爆者を苦しめる。

 いかなる理由にせよ、その非人道性を私たちは決して許すことができない。核兵器のない平和な世を実現しない限り、犠牲者に顔向けできない。

覚悟が問われる

 いま世界の核兵器は約1万7千発。東西冷戦時より大きく減ったとはいえ、被爆地を無力感が覆う。だが、諦めるわけにはいかない。人道にもとる兵器だという認識を世界が共有するために、私たち自身の覚悟と行動が問われよう。

 まず心すべきは体験継承ではないか。

 8月に入ると被爆地では平和を考える催しが増える。あちこちに残る爪痕に驚くのは、市外から訪れた人ばかりではない。先の週末も、碑めぐりに参加し、これまで知らなかった慰霊碑の存在に気づいたと話す若い市民の姿が見られた。

 ただ、10年、20年前を知る人からすれば、被爆者の肉声を聞く機会がめっきり減ったと痛感していることだろう。病をおして講演活動を続けた漫画家中沢啓治さんも昨年末、亡くなった。

 ところが、その作品「はだしのゲン」は翻訳され、20カ国で読まれ続ける。家族を原爆に奪われた中沢さんの怒り、廃虚を生き抜くたくましさ。それが分身であるゲンに投影され、若者を引き付けてやまない。

 怒りだけではない。老いた被爆者の証言を聞けば、激情はむしろ心の内に押し込んでいると感じることだろう。

今なお自責の念

 米国を憎んだところで家族は戻ってこないからだ。炎の中に身内を取り残し、自分だけが生き延びたことに、自責の念はなお消えないからだ。

 だから多くの被爆者は「ほかの誰にも自分と同じ苦しみを味わわせてはならない」「核兵器も戦争もない世の中を」と口にする。恨み、つらみをはき出し、再びのみこむ。葛藤の日々を思う。

 戦争も原爆も知らない私たちには追体験できない。だからこそ自らが被爆者の記憶を補い、そうして歳月にあらがいながら、次世代に伝承するしかない。

 想像力にやすりを掛けよう。膨大な手記を読み込み、あの日を再現できるだけの知識を蓄える。被爆者の肉声を聞く機会があれば、声にならぬ心の声に耳を傾ける。はだしのゲンに限らず原爆に関する文学、絵画、映画やドラマに触れ、核兵器への怒りを自分のものにする。

 そうした努力が、原爆投下をめぐる歴史認識も鍛えてくれる。

 戦争加害という文脈でいま、日本の歴史認識があらためて問われている。そして、到底認められないが、米国やアジアには「戦争の早期終結につながった」と原爆投下を肯定する見方が根強くある。

 気掛かりなのは、ほかならぬ被爆国政府の姿勢だ。核拡散防止条約(NPT)再検討会議の準備委員会でこの4月、日本政府は核兵器の不使用に関する共同声明に賛同しなかった。米国の核抑止力に頼る現状と矛盾を来すのが理由である。

 場合によっては核の使用も「仕方ない」と認めることになる。それでどうして被爆国を名乗る資格があろうか。

 しかも安倍政権は、集団的自衛権の行使を禁じた憲法解釈を百八十度変更し、行使を容認する考えという。米国がどこかの国に攻撃された場合、日本がその国に反撃できるようになる。それは当事国が核兵器を持つ限り、日本が核戦争に巻き込まれる事態にもつながりかねない。

 そうした危うさを思えば、被爆国政府はむしろ、核兵器ゼロが先決だと世界に呼び掛けるのが筋ではないか。

 さらに諸外国は、米国の「核の傘」が頼りなくなれば、日本は独自の核武装を目指すだろうと懸念を強めている。

 理由の一つは、原発の使用済み核燃料から取り出したプルトニウムを大量に保有し続けていること。もう一つは安倍晋三首相がかつて官房副長官時代に「憲法上は原子爆弾でも小型であれば問題はない」と発言したように、この国の為政者たちが手放さない核容認の姿勢だ。

核武装するのか

 さらに自衛隊を国防軍に衣替えしようという憲法改正の動きが重なる。それは自国の軍備拡張を抑えてきた現行憲法の「たが」を外すとともに、営々と培ってきた平和国家日本への信頼感を一気に損ねてしまいかねない。

 先の大戦を顧みれば、資源のない日本にとってエネルギーの確保は、要らぬ紛争を招かぬためにも重要であろう。しかし、だからといって原発の再稼働手続きばかりが進む現状はどうか。目に見えぬ放射能におびえ、風評被害にさらされてきた被爆地からすると、福島の被災者を置き去りにしているとしか思えない。

 広島市の松井一実市長はきょうの平和宣言で、核兵器は「絶対悪」と呼び掛ける。安倍首相もルース駐日米大使も肝に銘じてほしい。私たちも伝承者としての出発点に当たり、心に刻みつけたい。

(2013年8月6日朝刊掲載)

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