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社説・コラム

『この人』 ことしの広島市の平和宣言に被爆体験記が盛り込まれた 硯谷文昭さん

奪われた健康 反戦誓う

 毎朝、頭がふらつく。体もだるい。被爆者であることの現実をいや応なしに突き付けられる。「健康が欲しい。人並みの健康を下さい」。切なる願いを原稿用紙7枚にしたためた。広島市の松井一実市長が6日の平和記念式典で読み上げる平和宣言に引用される。

 被爆当時は14歳。広島県立工業学校(現広島県立広島工高)の2年生だった。自宅のあった南観音町(現西区)で、勤労奉仕を前に集まっていた時に熱線を浴びた。左半身に大やけどを負った。めくれた脚の皮膚を自分で引きちぎって、自宅の下敷きになった兄弟2人を助け出した。

 それから半年間、寝たきりに。傷は癒えても、鏡に映る自分の姿にあぜんとした。髪は抜け、首には赤く腫れ上がったケロイド。「絶望のどん底に落とし込まれた」

 高校卒業後、大竹市の化学メーカーに就職。入社時は野球ができるほど元気だった。「でも、放射線による傷は体の中に潜んでいた」と振り返る。

 20代後半から、倦怠(けんたい)感が抜けず、食も細った。極度の貧血で入退院を繰り返す。56歳の時には皮膚がんの手術もした。「若い人にこんなつらい体験はさせちゃいけん」。2年前から、現在暮らす周南市の中学校で語り部活動を始めた。

 平和記念式典は自宅で妻恵美子さん(81)とテレビ中継で見る。体験談にしたためた「互いを愛する気持ちを世界の人が共有すれば、戦争を避けることも夢ではない」のメッセージが発信される。「私の動ける範囲は限られる。平和宣言は世界に伝わる。最高の喜び」。語り続ける決意を新たにする。(石井雄一)

(2013年8月6日朝刊掲載)

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