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社説・コラム

『論』 ノグチが架けた橋 復興の息吹 伝える「場」

■論説委員 田原直樹

 原爆死没者に祈りをささげようと、8月6日を過ぎても多くの人が広島を訪れる。平和記念公園へと向かう人たちと、しばしば平和大橋の上ですれ違う。  この橋にまつわる写真が思い浮かぶ。欄干にまたがった子どものまぶしい笑顔をとらえた1枚。半世紀以上前に撮影された。復興への息吹が伝わってくる。橋が都市再生のシンボルだったことを物語る。

 太陽をかたどり「生きる」と名付けられた橋は、黄泉(よみ)の国の船を表現した西平和大橋と対をなす。2橋の完成から61年。当初は斬新なデザインが物議を醸したが、やがて市民の心の支えとなった。

 ところが、時を経て見慣れたためか、発展した都市に埋もれたのか、今では関心もいまひとつ。橋の歩みを知る人も多くないように思え、残念でならない。

 二つの橋の欄干は、世界的に知られた彫刻家イサム・ノグチ(1904~88年)が設計した。

 そのノグチを軸に据えた展覧会「アート・アーチ・ひろしま2013」が市内で開かれている。公立、民間の美術館3館による初の合同企画。ノグチの実像に触れ、平和大橋に対する認識を深める機会となろう。

 市現代美術館では、橋建設の際にしたためた手紙、「広島のための鐘楼」などの作品模型を見ることができる。ひろしま美術館はノグチに影響を与えた芸術家も紹介する。県立美術館はノグチと交流があった地元出身デザイナー、三宅一生の作品も展示する。

 日系米国人として日本に強い思いを抱き続けたノグチ。その人間像、優れた造形感覚が伝わってくることだろう。

 戦時中、日系人収容所に自ら入った。戦後、来日して陶芸を学び、庭園を手掛ける。後年、「未来へ強く生きる、広島はそんな感じを持つ街であってほしい」と述べている。再訪した折には、かわいいわが子のように欄干をなでたという。被爆地の再生に心砕いた芸術家として、地元でもっと語り継がれるべきだ。

 橋には20年ほど前から、都市計画上の議論がある。老朽化が目立ち、交通量に比して車道も歩道も幅が狭いため。移設して架け替える案が浮上してきた。

 現在、並行して歩道橋を架ける計画がある。歩行者の安全を確保しつつ、オリジナルの姿を残す方向性は望ましいだろう。将来は架け替えるにしても、象徴的な欄干はとどめたい。

 さらに市は、30年前に補修で施された塗装を取り除き、建造当時の地肌を見せるという。橋の意義を見直すには、いい機会となる。

 被爆者の高齢化が進む。被爆建物をはじめ、生々しい被爆の痕跡は少なくなるばかり。体験や記憶をどう継承していくかを考えるとき、目に見えるものを残す意味は大きいだろう。

 しかも平和大橋は、丹下健三が手掛けた平和記念公園などとともに、広島平和記念都市建設法によって造られた。復興の原点ともいうべき遺産に違いない。

 ヒロシマを物語る「場」としての力を持っているといえよう。

 幻の「広島の原爆死没者慰霊碑」案もノグチの重要な仕事の一つである。平和大橋と同様に、被爆の地に「架けた」ともいうべき作品だ。丸みのある形状で、地下に原爆犠牲者の名簿安置室を設ける2層構造。市現代美術館に展示中の模型は5分の1サイズだが、黒い石が圧倒的な存在感と、厳粛な印象をたたえる。

 平和記念公園周辺のどこかにモニュメントとして実際に建設できれば、橋と合わせた「場」の力は二重三重にもなる。そんな気がしてならない。

(2013年8月8日朝刊掲載)

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